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往復書簡 その2

2011/11/20 (日) 11:21:44
その1の続きです。
充実のやり取りが続いていますので、こちらでまとめて行こうと思います。その1でも書きましたが、ここで読める内容は「決定」ではありません。あくまでリアルタイムドキュメントであり、「思考の現在進行」なのです。どんどん変化もあるし、前言撤回もあるでしょうし、それら含めて公開していく、というのが趣旨です。つまり「思考のセッション」でもあるのですね。そういう楽しみ方をしていただければ幸いです。

なお、お話し相手である yuhka-unoさんの日記はこちらです。併せて読んでいただくと、また多面的に捉えられるのではないでしょうか。と思います。



*yuhka-uno
>またお互いに何かあったら気軽に話せれば。と思いました。
 
もちろん!この一連のやりとりが終わりなのであって、mcさんとの関係が終わるわけではありませんし。むしろ、そっちは始まりかもしれません。そして、「そろそろ」終わりなので、まだもうちょっとだけ、続くと思います(笑)。mcさんのことについては、私が言うことはもうあまり無いんじゃないかなぁと思いましたが、私がこのやりとりの中で感じたことについては、まだお話ししたいことがありますので。
 
私はエロは好きだけどセクハラは嫌いで、それは以前からここでもブログでも言ってますけど、そこから色々考えて、「○○が好き」っていうのは、「○○なら何でも好き」ってわけじゃないよな、って思ったんですよね。むしろ、「○○が好き」っていうのは、「私は○○に関してものすごくこだわりがあって、好き嫌いも激しいです」という表明だったりしますし。
服が好きな人は、服なら何でも好きなわけじゃない。絵が好きな人は、絵なら何でも好きなわけじゃない。音楽が好きな人は、音楽なら何でも好きなわけじゃない。むしろ、ものすごくこだわりがあって、好き嫌いも激しい。逆に、何でも良いと思うのは、興味がないってことなんですね。
だから、私がエロについて何でもかんでも受け入れられないのは、むしろ当たり前だ。だって、それが「好き」っていうことなんだから。という結論に至ったんです。
 
で、私は今までの人生の中で、こんなに音楽家さんとがっつりお話したことがなかったわけですが、mcさんとのやりとりの中で、「ああ、やっぱりそうなんだなぁ」と思いました(笑)。
mcさんが、ゆずとか猿岩石とかの「フォーキー」が好きじゃない、と仰った時、私が思ったことは、「まぁ、私はああいうのも嫌いじゃないな。かといって、特に好きでもないけど」でした。それは私が寛容ということじゃなくて、要するにmcさんほど音楽に興味がないってことです。「好きの反対は無関心」とは、よく言ったものだなぁと思いました。
ある意味、私みたいな人間のほうが、音楽についての許容範囲が広いのかもしれません(笑)。逆に、音楽が本気で好きな人同士のほうが、お互い距離を取らないといけない場面が多かったりするんでしょうね。
 
それから、mcさんが「嫌い」と仰ったものの中には、私が好きなものもありました。でも、それでmcさんに噛み付こうとか(笑)、そんなことは思わなかったし、かといって、じゃあそれを好きでいるのをやめるかというと、そんなことも思いません。
私の中で湧き上がってきた気持ちは、「mcさんは、なんでそう思うんだろう」というものでした。別にそれで、mcさんに対する感情が変わるわけでもなかったし、私が好きなものに対する感情が変わるわけでもなかったんですね。
それで思ったことは、「ああ、私が好き嫌いをはっきり言われたときに湧き上がってくる感情って、この程度のことなのね。じゃあ、私が自分の好き嫌いについてはっきり言うのも、この程度のことだよね。だったら私だって、もっと好きとか嫌いとか言っても良いんだ」でした。そういう意味でも、このやりとりの中で、自分の殻が剥がれていったような気がしました。
 
私、「ババアの墓掘り音楽」も「カバーばっかりしてる音楽家」も、結構好きですw



なるほどw

そうね。僕もエロ大好きだけど下ネタが嫌いなんですよ。茶化すことじゃないと思うし、なんか下品なので。まじめなエロ話ならいくらでもします。

音楽の場合は…。誤解されるとあれなので、音楽家でも人それぞれと思いますけど、あんまり今回の僕のようにはっきり好み言う人はいない気がします。商売上弊害があるしね。趣味的に音楽については、今は出来るだけ他人と話さないようにしていますね。おっしゃるとおり、拘りあるぶん、たぶん人とは相容れない部分とかあってめんどくさくなるからですね。
「フォーキー」についてはちょっと思うことあって、つまり「フォーク」って団塊世代の音楽なんですよ。当事そういうのを回顧する風潮があって(3丁目がどうのとかいう)、それが嫌だったんですね。それを知らない世代は、普通に「音楽」として受け取っただけだろうけど、当時の空気も知ってた僕は「旧価値観の象徴」みたいに思えて、なんだか嫌でした。そして、それに乗らされるのも。だから、実はゆずや猿岩石の音楽そのものが嫌いだったわけではないんですね。あくまで仕事として、それに乗るのは遠慮させてくれ、って話だったと思います。
ねえ…。いろいろめんどくさいですねw 自分のコト振り返っても、音楽は趣味だった時代が一番楽しかったです。

好き嫌いについては、これは僕の特徴かもだけど、「言う相手によって」明確に反応が変わります。調子いい、と言われたらそれまでですけど、yuhka-unoさんがそう言うのだったら、それは素直に「いいよね」って思えます。たぶんそれは、ただ単純に純粋に「好きです」って言ってるからだと思います。政治的意図がないっていうかw 多分ほとんどの人はそうですよね。とてもいいことだと思います。

最近うたれんしてて、自分の曲歌うのって苦しいのね。だから、感情を消してロボット的に演じて歌ってるので、自分の曲なのに、内容について最近はあんまり鑑みることがないのだけど、今日さっき、どういう内容なのだろう、とか改めて噛み締めつつ歌ったら、ちょっと重いので、ああやっぱり歌に気持ち込めてるよねえ、って思ったな。創作って苦しいものだから、それを歌うときくらいは開放されたいって思うからね。歌っていうのは他人に聴かれて初めて成就するもので、生んだ段階では何物でもない、ただの自分の心情吐露の日記に過ぎない感じがするのよね。
うん。やっぱり歌うことですべては救われてる。それはすごく思った。さっき。


*yuhka-uno
私、下ネタも結構好きですw でもやっぱり、下ネタなら何でも好きかというと、それは絶対に違いますね。まずセクハラと下ネタは別物ですし、排泄物系と艶笑とは違いますし、やっぱりあんまり下品で安易な下ネタは嫌ですし。「上品な下ネタ」が理想です。うわーめんどくさいw
 
二人で横丁の風呂屋に行ったり、髪が肩まで伸びたら結婚しようとかが、団塊世代の「フォーク」という認識で、だいたいあってますか?
そういえば、私にとっては、檀れいの金麦妻のCMが「旧価値観の象徴」みたいで嫌でしたね。あれ三丁目より嫌ですw
 
政治的意図w まぁ私の場合は、音楽の好みを語ったところで、特に損得があるわけでも、商売上弊害がある立場でもないですしね。
 
そうそう、フレッド・アステア好きですね。子供の頃、家の近所にTSUTAYAができた時、父が私に勧めたのが「雨に唱えば」だったんですよ。どっぷりハマってしまって、レンタル期間中何度も繰り返し見ました。それ以来、「紳士は金髪がお好き」とか「マイ・フェア・レディ」とか「踊らん哉」とか、そういう映画を借りて見ましたね。たぶん、私の音楽の好みは、こういう路線なんだと思います。
 
mcさんのことは、最初は「親からの抑圧を受けて育った人らしい」「何か私に似たものを感じて下さっているらしい」というところから入ったんですよね。音楽家さんだと認識したのはその後からでした。
正直、このやりとりを始めた時は、ニコニコ動画の「高田馬場」しか聴いていなかったんです。私とmcさんの共通項は「音楽」じゃなくて「人生」だと思ってましたから。でも、話を進めていくうちに、「ああ、この人にとっては『音楽』が『人生』そのものなんだ。これは聴かないで話を進めるわけにはいかないな」と思って、少しだけYoutubeとかで聴かせて頂きました。なんか、三ツ矢サイダーみたいに爽やかでびっくりしましたw



そうですね。下ネタって言ってもいろいろあるな。気持ちが通じてる相手なら、どんなことでも許せんるんじゃないか、って気がしてきたw 元々僕はそういう人でした。すごい厚くて高い壁が他者のと間にあり、それを超えて仲良くなれた人とは、どんなことでもOKみたいなことは多いです。僕は一人っ子ですしw

そうそう。フォーク。合ってます。金麦ねー。あれもそうですね。
僕そもそも、ジャンルとかにそれほど偏見あるほうじゃないんです。好きなら何でもします。ただ、政治的意図()、つまり流行ってるからこれしようとか、墓堀音楽で老人騙そうとか、そういう意図があることが嫌いなんですね。これは、子供のころ親から押し付けらてたら嫌いになった、とか、そういう感覚と似てます。他人(自分が認めてない)から何か言われてするのが嫌だったんです。

僕、見た目も爽やかなのでwww
いろんな人が寄ってきます。それが迷惑なので、身体中にハリネズミみたいに棘を生やして、オレにかかわるなーオーラを常に出すんです。その一環として「ジャズはクソ」とか「カバーは認めない」とか言うんです、多分。でも本心では、心許した相手には「いいよねー」って意外に簡単に言っちゃいますね。昔ある人に「お前は調子がいい」と言われたことがあります。僕のことを嫌いな人は、そういう風に見えるだろうな、って思いました。

それも含めて、音楽が先にあると話すのも難しいかと思ったし、それ抜きの関係っていうのも貴重かと思いました。ただ、自分が「生んだ」音楽だから、自分の一部であることには変わりなく、理解するヒントにはなるかもです。爽やか路線は、あれこそ僕の「多摩川系」そのものだから、ルーツですよね。

昔はもっとハードで重くて暗い歌も多かったんです。最近、僕が関係する若い子に、昔のヘビーな曲すごくいいじゃないっすか、とか言われるので、また復活するようになりました。マザーっぽい、親のコト歌った曲もありますよ。

映画の趣味いいですね。

とか。素直に「いいですね」と言える自分も、いいですね。笑。


*yuhka-uno
>つまり流行ってるからこれしようとか、墓堀音楽で老人騙そうとか
 
ジャンルそれ自体が嫌なんじゃなくて、そういう意図で行動するのが嫌なんですね。そういえばチャリティーに関してもそうでしたよね。
 
Youtubeで聴きましたから、mcさんの「見た目」も見ましたよw
動画見ながら、リアルでmcさんと接する人は、「爽やか系音楽家・唐川真さん」から入るのかと思うと、逆から入った私が、なんか不思議な感じがしました。ネットって内面から入るんですね。それが良い場合も悪い場合もありますけど、私とmcさんの場合は良かったのでしょう。
まぁ、聴いた後の今だって、ほとんど「音楽抜き」の関係みたいなもんだと思いますけどねw やっぱり今でも、「音楽家・唐川真さん」よりも、「私と似た部分があるmcさん」という認識のほうが大きいですし。
ただ、「それぞれの夏休み」は、私の中で、mcさんがお亡くなりになった時に聴く曲の候補第一位に設定されましたw
 
下ネタに関しては、例えば、私が好きなマックス・ラーベという歌手は、本番ではいつも髪を撫で付けて燕尾服かタキシード着て、スマートかつエレガントな雰囲気を醸し出してるんですが、日本公演の時、楽曲紹介で「ドイツでは、白アスパラガスは春の象徴です。象徴するのは春だけじゃないけど…」と言いました。こういう下ネタはわりと好きですw



なるほど。
いろいろ考えまして、アカウントの話題で昨日書いたとおり、結局そういうことなんですね。

「夏休み」が録音し終わって完成した直後の気持ちは今も凄く覚えています。なぜかわからないのだけど、涙が止まらずに延々半日泣いてたんです。そのとき思ってたのは「こういうことか。こういうことだったのか」というのと、あともう一個は「こんなの創ってしまってどうしよう…」でした。完成したあの曲を聴いて、これは自分にとってものすごく大きな存在になるってわかっていました。で、そのときの僕には、あの曲の存在感にふさわしい人間としての存在感、というか価値はないと思ってたんです。つまり分不相応の曲を書いてしまった、どうしよう、って感じだったんです。

とはいっても、自分の作品として書いてしまったから、それは宿命として逃れられないんですね。だから、あの曲をしっかり歌えるような、それにふさわしい「表現者」になること、それがその後の僕に課せられたコトだったと言えます。大変でしたけど。
やっぱり歌というのは、それを歌っていい人間かどうかってのは、僕はあると思うんですよ(プロ的に)。当時の僕は、自分の人間性や存在感よりも、作品レベルのほうが傑出してしまったので、その対処にすごく苦労したっていう事だったと思います。それが、当時より小さくはなったけど、今も続いてるって事じゃないかな。

誤解はしてほしくないんですけど、僕の「爽やかそうな」歌詞にしろ曲にしろ、ちゃんと聴くと、ふんだんに毒が入ってるのですけど(だから自分も歌えるのです)、それは普通のヒトは気づかないんです。おまけに、表面上のサウンドやメロディが親しみやすいもんだから、けっこうヒトの耳を惹きやすい。それで、実際の人間がこんなですからw それで引かれてしまう、という感じなんじゃないかな。

爽やかな「曲」の歌詞に、毒や主張を込める、というやりかたはポールウェラーというヒトに学びました。そういうブリティッシュな捻くれ具合がいいな、と。

だから、そういう意味では、自らそういう反応を引き出すように、こっちが仕向けてるとも言えるのですよね。けっこう意地悪いw

まあというわけで、こっちの僕を先に知っての「夏休み」は、知らないヒトとは別な感じで響くのではないでしょうか。

なんだか自分語りになってしまいました。

下ネタ。うんうん。そういうのいいですね。上品と言うかウィットのある感じが好きです。でも時に壊れてとてつもなく下品なコト言いたくなります。仲間内(僕がわざと言ってると気づいてくれるような仲の)では、そういうこと言ったりします。
飲んで酔った時でも、酔っ払いおやじの「真似」したりします。そういう真似して気づくのは「楽だ」ってことでした。酒飲んで下品になったりダラーってなるのは、ずいぶん楽です。だからみんなそうなるんだね。これは真似してみて気づいたことでした。
前に、お酒とエロは大人の嗜み、とおっしゃってましたけど、そういう意味では、みんな子供になってるんでしょうね。「赤ちゃんがえり」だ。


*yuhka-uno
「そろそろ終わり」とか言いつつ、まだ書くこといっぱいあるw
 
そもそも、mcさんを「音楽家」だと認識しても、mcさんの音楽を聴かなかったのは、正直「音楽」の部分にはあまり興味なかったからなんですよね。「たぶん、この人の音楽は、私にとって興味ある路線じゃないんだろうな」と思っていました。すみません、私、「墓掘り音楽」が好きな人ですからw
そして、それは実際に聴いてみてもそうでしたし、一方で、ああいう人生を生きて、ああいうことを考えている人が創った、こういう音楽なんだ、とも思いました。
私は、政治的意図(笑)から「墓掘り音楽」をやるmcさんより、自分に正直に生きようとして、自分の音楽に人生かけてるmcさんのほうが、絶対好きなんですよね。たとえ私に、mcさんの音楽の良さや意図がわからなかったとしても、です。
 
「辛口で暗くて本音バリバリの濃い」mcさんは、苦手だ嫌いだという人もいる一方で、そこが魅力的だと感じる人も沢山いるのだろうな、と思います。
そして、それは私にも言えることなんでしょうね。私は「良いお姉ちゃん」をやめて、元来のマイペースな私を取り戻して行こうと思いました。「良い人」じゃなくて良い。「魅力的な人」であればそれで良いんだと。幼稚園の頃、別室で一人で絵を描いていたマイペースな私は、苦手だ嫌いだという人もいるでしょう。でも一方で、見方によってはなかなか面白い子だと思います。
もしmcさんが、万人受けしない、マイペースな私のほうが良いと感じて下さるのなら、それはmcさんにとってもそうなんだと思います。
 
mcさんの音楽を聴いて、大きく分けて三ツ矢サイダーがポカリかで迷ったのですが、「なんか炭酸強そう」と思いました(笑)。同じ爽やか系飲料水でも、ポカリみたいに、抵抗なく飲めて、すんなり体に浸透していくような、そんな感じじゃないような気がしたので。それで「三ツ矢サイダーみたいに爽やか」と言いました。なんでそう思ったのか、自分でもよくわからなかったのですが、mcさんの説明を聞いて、わかったようなわからないような気がしました(笑)。
 
私は、兄弟で下ネタを言い合って育ったようなものですねw
私、下戸なんですよ。だから、お酒飲んでセクハラしたりする人のことを「酒の席だから」「しょうがないから」と思えないんです。こっちはずっと素面なんですから。
「大人の嗜み」は理性が伴うものだと思います。もちろん、ちゃんと嗜めるようになるまでには失敗もありますし、失敗はある程度お互い様なんですけど、一方的に赤ちゃんプレイに付き合わされるのは勘弁ですね。
 
自分語りして下さいw
そもそも私が話しかけて始めたことですし。



なるほどー。爽やかと言っても癖があるから三ツ矢サイダーというのは、それはいい言い方ですね。今後使うことにしようw 言われる感想の中で、まだ「爽やか」ならいいですけど、イコール「安易で産業的」と言われることも多いから、そうじゃねえよ、という感じでいいです。似非ロックばかりの中では、僕みたいなものこそロックだ、みたいに自負してるところもあるんです。僕は反逆の人なので。笑。

僕は勝手に思ってるのですけど、レノンは「墓堀音楽」ってバカにしたけど、実は好きだったんじゃないか、って気がします。それは僕も同じです。好きですから。
ただ、自分がするものじゃないし、レノンにしてみりゃ、同じバンドの相棒に、そんなのされた日には、おいおいバンドのアイデンティティは違うだろ?と突っ込みたくなると思います。ノスタルジーの中にある音楽や思い出は、他人に触れられたくないって思いますし、なんだか心の中に無理クリ入り込まれたみたいで、なんか嫌なんですよね。その嫌悪感の表明として(つまり僕にとっての全身の棘のような)「墓堀音楽(ケッ)」みたいに精一杯揶揄してみせてるんじゃないか、てそう思いました。
そういえば僕は、自分に似てる音楽をする人が嫌いなんです。よく他人に「これ貴方に似てるから好きだと思うよ」などとアーティストを薦められますが、それ、ものすごく嫌ですw

僕は音楽と同じくらい、「文章」というものに惹かれるんですけど、それもやっぱり「形や形式」として整っているものより、感情ぶちまけ型のほうが好きなんですね。あと、これ理由がよくわからないのですけど、本心で書いてる人と、なにか形式に囚われて書いてる人は不思議に見分けが付きます。見分けがつく、と僕が勝手に思い込んでるだけかもなんですが。

ご存知かわからないですけど、むかしはてな界隈にはしごたんという人が居たんです。僕は彼女の書く直情的文章が好きでした。ありむくんも同じような感覚を受けます。そしてyuhka-unoさんも、僕の中では一緒なんです。

文章の場合「墓掘り音楽」に当たるものはなんなのか、よくわからないですけど(天声人語風とかよく言ってましたが)、そうではない文章のほうが、僕の心の中に直結してきて直接感情に響くんです。まるでそれは、音楽のように見えるんです。文章なのに。なので、僕も整ってるようなものより、ちゃんと気持ちのまま書かれたものが好きなんですよね。
教わったりノウハウで当てはめたものは、それなりのレベルにはなるでしょうけど、心に響く表現物にはならない気がするんです。多少いびつでも、本心からのもの、それが人の心を動かす気がしました。僕が最初からyuhka-unoさんの書くものに惹かれたのも理由はちゃんとあるんだなって、思っています。


*yuhka-uno
微炭酸か強炭酸かでも迷ったんですけど、「微」じゃなくて「強」のような気がしました。爽やか系強炭酸飲料だと。本当に、なんでそう思ったのか、自分でもわからないんですけどね。
 
はしごたん、なんとなく覚えてるんですけど、あの頃はまだはてな界隈に浸かっていない時期だったので、かなり記憶が朧気ですね。でも確かに、私以上に直情的だったという記憶があります。
 
私、結構整ってる文章好きですね。「春琴抄」とか(笑)。歌でも、「夜来香(佐伯孝夫)」とか「胸の振子(サトウハチロー)」とか好きです。
オペラ座の怪人の「Music of the Night」も好きですね。韻を踏んでいるところとか、色々な意味を含ませているところとか。
 
でも、そういう整った文章って、よっぽど文章能力がないと書けませんからね。難しい言葉を使えば良いというものではなくて、難しい言葉ほど、その言葉をよく理解して扱えるほどの文章能力が必要とされますから。そこまで文章能力がない人が真似したって、できるもんじゃないので、文章能力そこそこの人は、難しい言葉を無理に使おうとせず、自分にとってわかる・扱える言葉だけを使って、素直に書いたほうが良いと思うのです。
なので、そこそこの文章能力の私は、あんな感じの文章になりました(笑)。
 
整っているとかいないとか以前に、書きたいことがあるかないかというのは大きいな、と思いました。だとしたら、私が読書感想文や志望動機を書くのが苦手な理由がわかります。書きたいことがないからです(笑)。
 
「墓掘り文章」についても考えてみたんですけど、「いざ行かん若人よ」とか「日毎夜毎、我に語りかける君の声よ」みたいなのがそうかな、と思ったのですが、これは「墓掘り文章」というより「墓掘り詩」ですね。
 
>そういえば僕は、自分に似てる音楽をする人が嫌いなんです。
これも、「他人に触れられたくない」からですか?

あれから色々と考えているのですが、もしかして、簡単に「ジャズ好き」「ジャズいいよね」と言ってしまうと、「じゃあジャズやってよ」ということになりかねないので、「うちはジャズ屋じゃありませんから!求められてもしませんから、ジャズは他所でお買い求め下さい」みたいなところがあったりするのでしょうか。



ありがとございます。いろいろ思い出してたんですけど、僕は自分が認められてなかった時代、自分の「声」を褒められた事がなかったのです。耳障りだとか高い声が単に出るだけとか酷い事言われまくってて、まあ傷つきましたw
そんなことがあったので、僕が曲を書く人に転向して大手の事務所からスカウトされたときも、アーティストじゃなく作家さんになるものだと思って、すっかりそのつもりで事務所に行ったのですよ。そうしたら、ディレクターのヒトやスタッフのヒトが「良い曲だし声も良いしね(!)、自分で歌うべきですよ」と言われて腰を抜かすほどびっくりしたのですよ。僕の場合は、ですので、多分大変珍しいケースだと思うのですが、アマチュア時代は周りの誰も良いと認めてくれなくて、僕を認めてくれたのは全員プロのヒトだったんです。だから、僕の歌うヒトとしてのキャリアはアマチュア時代が全くないわけですね。
それで、その認められる前まで、僕の声が嫌だとみんなが言ってたその理由は、今回yuhka-unoさんが言われた「強炭酸」に通じてるんじゃないかって思ったのですよ。多分僕は、声に癖があって、その癖のある声に合った楽曲を自分で書けなかっただけなんだと、そのとき思いました。
プロの人々に絶賛されたのは「夏休み」でした。癖が強くて特徴的な部分をメロディで逆に活かして創ったわけですよね。だからみんな、すごいいい、と言ったのだと思いました。おもしろいなあ。

ジャズの件はそう思います。東京時代はそんな事なかったんですけど、こっちのヒトは「音楽」だというだけで全部一緒くたにするんです。それに、プロで活動してる音楽家が、僕以外ではジャズかクラシックしかいません。そんななかで孤軍奮闘して、お前もジャズやれとか言われたら、それは死に近いです。これでも生きるのに必死なんですw

>これも、「他人に触れられたくない」からですか?

ああなるほど。そうかもしれないですね。音楽って個人的なものだと僕は思ってるので。無闇に他人と「想い」を共有したくない、っていう排他的な感覚は常にありますね。
あとは、自分に似てるヒトを聴いても刺激にも参考にもならないんです。なので普段は僕は自分がするのとは全然違うもの聴いてるし、それよりも映画とか本とかもいいし、音楽は仕事だけでじゅうぶん、って感じですね。たぶん、そういう理由で僕は同業者と付き合わないんだと思うのです。同じ事考えてるヒトと付き合っても広がらないし。

>自分にとってわかる・扱える言葉だけを使って、素直に書いたほうが良いと思うのです。

そうなんです。そのほうが心が強く動かされます。音楽も似た感じですよね。時に整ってないような表現のほうが心を打つ場合があるので、自分でもそのバランス、つまり「完成させすぎない」ということは常に意識してます。

いろいろ掘るとどんどん出てきますね。墓堀りじゃなくて、自分の心を掘ってる気がします。楽しいので大丈夫ですw


*yuhka-uno
「高田馬場」以外でmcさんの音楽を初めて聴いたのが、たぶん「きみのイマジナリー・ラバー」だったと思うんですけど、そういえば、第一印象で「なんか、特徴的な声の人だなぁ」と思いました。確かに、あの声じゃなかったら、「強炭酸」とは思わなかったかもしれません。
「それぞれの夏休み」が完成したとき「こういうことだったのか」と思われたのは、声のことも含めてですか?
 
mcさんの場合と違うかもしれませんが、今の私もまさに刺激を受けている状態です。以前、ブログで自分の母のことを書いた時、叩かれもしましたが、一方で「文章が上手い」とも言われて、それは素直に嬉しかったです。mcさんが私の文章に惹かれたと言って下さったのも。
でも、コメント欄で褒められすぎてしまって(笑)。有難いんですけど、なんか嬉しくないんです。全然刺激にも参考にもならないし、なんか分不相応な褒められ方してしまっている気がして。例えばこうしてmcさんとやりとりしているほうが、ずっと充実感あります。
 
私は、難しい言葉を無理して使うと、かえって自分の文章能力のなさが浮き彫りになってしまうと思うんです。難しい言葉は、高級画材や高級食材のようなもので、それを使えば良い絵や料理ができるかというと、決してそういうわけではないですし、かえって腕のなさがバレますからね(笑)。
 
思うんですけど、一口に音楽といっても、作詞能力と作曲能力って、また別物ですよね? あと、聴く能力と演奏する能力も。たぶん、演奏する時には聴く能力って必要だと思うんですけど、聴けたからといって演奏できるわけでもないですし。



なるほど。
「そうだったのか」というのはいろんな意味でした。思い通りすればよかったんだ、ということですね。元々やりたいことをやりたいようにやればそれでよかったんだ、みたいな。あと、あの曲では初めて女のヒトにコーラスを歌ってもらって、それが僕の音楽歴でも凄い重要だったんです。僕は他人が好きではありませんでしたので、自分の音楽にも他人を参加させるということは、それまでほぼ皆無と言ってよかったんです。それが、あの曲でその子に参加してもらって、それで曲の完成度が劇的によくなって、また、そのコがちゃんとやってくれたお陰で、僕も「これはちゃんと仕上げたい」という強い気持ちが生まれ、結果的にあそこまで昇華されたんだと思うんですね。そのもろもろの過程が全部「ああ、わかったよ!」って感じだったんですよね。それあでは、他人の血が混ざるって、不純物になるという感覚だったので、これは今までにない経験でしたね。ホントに。
僕はその歌ってくれた彼女に「この曲は二人の卒業式だから」って言いました。卒業制作。それまでは、そんな儀式とか全然興味なかったのだけど、気持ちが通じ合う相手となら、それを共感できるんだ!って気づいたんですね。僕に足りなかったのは、相手に対して開いた心、共感だったんだと。
そんなもろもろがあって、今の製作のノウハウ的なものの最初はあの曲で全て掴んだんですよ。凄い経験だったと思います。

ただ、前回も書いたように、僕もあの曲は当時の自分にとって分不相応だと思っていました。それに重くもあった。1曲しかできないんじゃマグレだし、ただのビギナーズラックで、それは仕事にならないです。ホントに大変だったのはそれからです。免許取っただけじゃ何かのプロになれるわけじゃない、ということを心の底から痛感しましたね。

文章の上手い下手で思いましたけど、僕がこっちのヒトの同業に心動かされないのは、辺に小さくまとまってるから、という気もしました。田舎で閉鎖されてると、大きな未完成品よりは、小さな完成品を求める傾向があるんですよね。「地方レベル」っていうのはそういうことなんじゃないかなあ。そこだけで成り立ってるもの。特化されてるもの。僕はそういうのが嫌なんだと思う。
文章ということで言えば、僕が嫌いな部類のものに、増田で時折見られるエッセイスト気取りの翻訳文みたいなものがあります。ちょうど、ツイッターで何か気の利いたこと言おうとする人に似ています。あれなんなんですかね、春樹かなにかなんでしょうか。普通に言いたいことを書けばいいのに、何でわざわざ気取った比喩なんか交えて、似非文化人の講演みたいに書きたがるのか、僕はよくわかんないです。
本心からの真摯な文章が全然心を打つし伝わっていきますよね。僕はそういうものに、自分の創作意欲も刺激されます。僕がいつも求めて探してるのは、本当の言葉なんです。

ちょうど、作詞のお話がでましたよね。実はですね。僕はずっと外国の音楽しか聴いてなかったので、日本語で歌うこと自体が、ものすごくハードル高かったんです。何を言ってもリアルで気持ち悪い、嫌だー、ってなりました。いまの僕の歌詞は、だから、僕が自分で歌って堪えられるものになってます。さっき書いたように、インチキくさいこととか、物語風のとか、僕はなんだか嫌なのですよ。本心を生臭くない言葉で、さりげなく心の隙間に入るように書きたい、っていう。それがいまの作風に落ち着いたかなって思います。
あとこれは常に意識してる重要なことなんですけど、「音楽」である以上は、歌詞のほうで目立つのは卑怯だ、っていう感覚あります。歌詞で勝負したい気持ちは、それはいいことですけど、それ重視するあまり、曲のほうが適当なヒトも多いのです。ちょっと意地悪な言い方すれば、「曲が適当でいいっていうなら、じゃあ歌じゃなく朗読でもしてろ」っていつも思います。僕の場合、歌詞がいいのが書けたら、曲もすごくよくなります。そういう相乗作用で互いの完成度が高まっていくのだから。一人コラボみたいな感じだと思いました。



*yuhka-uno
初めて他人を参加させるのが相乗効果になった瞬間だったのでしょうか。一気に色んなものを掴んだ曲だったのですね。mcさんのこれまでのお話を振り返ると、良いものができたり、何か掴んだりしたときって、心が開いた時なんだなぁと思います。
mcさんの人生の時系列では、キャバレー時代のあとにホテル時代があったのでしたね。「それぞれの夏休み」が完成したのは、いつ頃のことでしょうか。
 
>エッセイスト気取りの翻訳文
 
私は単純に、「この人、普段そういう本を好んで読んでるんだろうな」とだけ思っていました(笑)。2chに入り浸っている人の文章が、2chっぽくなるのと同じように、その人が普段から読んでいる文章が、その人の書く文章に出ているんだろうと。
 
私は学生時代が一番本を読んでいた時期で、学校の図書室と公共の図書館に入り浸っていました。その頃はまだネットの世界に接していなくて、個人的趣味でちょこちょことノートに文章書いてたんですけど、その文章は、当時読んでた本に影響受けまくってました。似非文化人的文章も、翻訳的文章も、気取った比喩もやってたと思います(笑)。
当時はまだ、色んなものから影響を受けて、吸収する時期だったんでしょうね。私の今の読書量は、当時に比べて激減しているのですが、今のほうが、そこそこの文章能力なりに、文章が安定しているような気がします。でもそれは、影響受けまくった時期があったからこそなのかなぁと、今思いました。
 
ネット以前は、文章を仕事にしている人以外は、学校の授業でしか文章書いてないという人も多かったのではないかと思います。そういう人たちがネットをやりだすようになって、文章を書くようになると、私が10代の頃にノートと鉛筆でやったようなことを、今ネット上でやることになるのかもしれません。
こうしてmcさんとやりとりして、私も昔のことを色々思い出しました。
 
私は聴いている音楽の絶対量は少なかったのですが、好みの音楽の内訳が海外よりでしたから、日本語の歌はあんまり受け付けませんでしたね。かといって、演歌もそんなに魅力的とは感じませんでした。明確に日本語歌詞を受け付けたのは、椎名林檎が最初だったと思います。
 
>何を言ってもリアルで気持ち悪い、嫌だー、ってなりました。
 
これは、外国語なら「音声」として認識されるけど、日本語は「言語」として認識されるので、外国語だとすんなり耳に入ってくるけれど、日本語のほうは、歌詞の意味に意識が取られてしまって、すんなり耳に入りにくいとか、そういうことでしょうか。
なぜこう思うのかというと、私がそうだからなんですけど(笑)。



そうですね。なんだかいろいろ思い出しますねー。
夏休みはホテルを辞めた1年後でした。その1年間コンビニバイトやってたんです。心を開いて誰かと気持ちを共有するっていうのは、さかのぼると高校時代の吹奏楽コンクールになると思います。ただしそのときは、僕は自分のせいで、それが「できなかった」んです。できなかったけど、そういうことが可能なんだ、ってことはなんとなく理解して、でも自分自身がその段階に至るまでにまた月日がすごく流れてしまったということなんです。だから、夏休みで共演した彼女に「これは僕らの卒業式だから」と言ったわけですね。

ネット上の文のこと。なるほど!わかりました。今は、ノートにチョコチョコ書くような文がネット上で公開されちゃうから気になるわけですね!僕だって曲創り始めのころの作品は酷いものです。だから公開なんかしないけど、増田はすぐ書けちゃうからなあ。なんとなくイメージで、ネット上に公開するような覚悟のある人は、それなりの「気合w」があるもんだと思ってしまうから、「へ?」ってなるんですね。なるほど、違うんですね。
でもニコ動なんかで上がってる一般人のヒトの曲とかも、けっこういいのもあるんだよなあ。ネットはそういう意味でも面白いんですよね。

外国語はまさにそのとおりです。日本語の歌を「聴く」ほうは、それほど抵抗があったわけではないですが、自分で書いた歌詞を歌うとなるとまったく別で、それこそ、心を開いてしまわないと、歌えなかったですね。作品力の向上は、その覚悟にも関係してると思います。覚悟が出来たからまたひとつ上に上がれた、ということなんではないか、と。


*yuhka-uno
ホテル業の後ということは、もうかなり心が開ききった状態の時にできた曲だったのでしょうか。だとしたら、心が開いて、制作のノウハウを全部掴んで、「免許」取って、色んな意味で「卒業」だったのですね。時系列としては、その後に大手事務所からのスカウトですもんね。
 
「山田ズーニー」で検索しましたら、ちょうどこの記事が出てきました。
http://www.1101.com/essay/
この中で子供たちがやってる模写は、「ごっこ遊び」なんだなぁと思いました。子供は「ごっこ遊び」の中で自分を表現しますから。
ということは、私が昔ノートと鉛筆でやってたことも、「ごっこ遊び」だったのかもしれません。小説家ごっこやエッセイストごっこですね。そういえば、私は今でもこの手の「ごっこ遊び」をしていました。訳詩家ごっこです。恥ずかしいのでどこにも公開していませんが(笑)。
 
増田って匿名ですから、「気合w」のハードルが低いですしね。それに、「似非文化人の講演」みたいな文章を書いたりする人も、それはそれで、その人なりに気合を入れて書いているのかもしれませんし。
学校で習ってきた文章の書き方って、思っていることをどうやって文章に表すかではなく、いかに思ってもいないことを「上手いこと」書くかなので、どうしても表面的なテクニックに傾倒してしまいがちだと思うんですよ。それが上手く文章を書くということだと思ってしまうと、上手く書こうと気合を入れた結果として、「似非文化人の講演」になってしまうのかなぁと思います。
ネットは、学校の読書感想文などとは違って、自分の思っていることを書けるから良いですね。
 
私は、自分が創った歌を人前で歌うという経験は、幼児期以降全くないわけですが、自分がやることを想像してみると、これは非常に恥ずかしいことだと思いました。そもそも人前で歌うということ自体が、非常にハードルの高いことなのですが、自分が創った歌を歌うよりも、まだ他人が創った歌を歌うほうがマシな気がします。
もしかして、他人が創った歌を歌うほうが、まだ「覚悟」のハードルが低いんでしょうか。



面白いことに、なかなか一筋縄では行かなかったんです。
せっかくなので、長々書いてしまいますが、ホテル業のあと1年かかったのは、自分を取り戻す時間だったと思います。全力で初めて仕事をして、それで結果初めて自由にできたわけですけど、今度はその快感に溺れて、そういう自分を演じるようになってしまったんですよ。ホテルの仕事は、言ってみればマシン的というかロボットみたいなものですね。自分の心で感じたままを表現する、という仕事ではないです。それを音楽に当てはめると、見た目華やかな芸人みたいになってしまうのです。何かを装ってるような。調子に乗ってしまったんでしょうね。
ホテルを辞めて以降、僕自身もとんとん拍子に行くと思ってたんだけど、確かにそれなりの評価は受けるんだけど、なんか回りも生暖かい対応だし、プロになるんだぜとかいって吹いてるただの痛いヒト、みたいな扱いだった気がします。それで、なかなか上手くいかないので、何故なんだぜ?みたいに考え続けてるうち、そういった葛藤やら何やらを全て製作にぶつけて、1年後に花開いたんですよね。
何か物を作るというのは、それくらい難しいものだったって言うことなんだと思う。ホテルで自由に行動できるノウハウを得たからといって、ホテル辞めればただのヒトです。「接客」に替わるだけの自分の本筋を自力で見つけなきゃいけない。自分の中で「ホテル業」に替わる「何かの業」を作り上げるための期間だったというか。
ホテル時代は、何をすればいいかわかってますから、それを演じてればよかった。キャバレーのバンドもそうです。曲は予め在って、それを演じればいいだけです。
自分でそれをする場合、そのオリジナル(スタンダードな曲とかホテル業とか)を生むところから始まるわけです。その際に、中身が無ければただの上っ面なんです。張りぼての看板みたいなものです。きらきらの服着て「いえー」とか言ってれば芸人ぽくは見られるでしょうけど、中身が無いんです。
なので、その1年で、僕は自分が本当に言いたいことは何か、自分自身の深層にアクセスしてずっと探り続けたんだと思います。そうして「本当に」言いたいことが発見できたとき、サウンドのレベルも相乗で、その域に初めて達した、ってことなんだろうな、と。
その1年はホントにホントにいろんなことを考え抜きましたよ。避けてた過去のことも全部しっかり思い出して、自分は何をしたかったか、何から始まったか、一つ一つチェックしました。ちょうど、前に出てきたレノンの原始療法みたいなものでしょうか。自分の欲してるものの一番の大元を辿るんです。そういう過程を経て、吹奏楽のコンクールのこととか、成就しなかった恋のこととか、憧れたまま叶わなかった夢とか、そういうことをひとつひとつ思い出して整理して、解決していったんです。
そんで辿り付いた結論は、僕がしたかったことは東京に出てすぐにしたかったことと、ほぼ同じだ、ってことでした。当時は若くて技術も稚拙だったし、そんなの古いとか、受け入れられないよとか、大勢のヒトに叩かれたりで、誰にも認められずダサいと笑われて挫折したけど、でも、したいことは同じだ、って。
この結論は意外だったんですよね。もっと斬新で新しく刺激的なことをしなきゃいけないのか、と思ってた。でも違っていました。あと、ちょうど時代的に一回りして、僕が若い頃したかった音楽が、また世の中で流行り始めてきたんですよね。だから結局、僕はまったく自分を偽ることなく、若い頃したかった、自分自身の本流の音楽に立ち返って、そのまんまを再現し、結果的にそれが一番完成度が高い、と認められたわけです。

いろいろこうして振り返ると、いろいろ幸運でもあったような気もしますけど、すごい紆余曲折ありますね。長い試行錯誤の末にたどり着いてる。ただ、ホントの意味で幸運だったと言えるのは、僕が何かを装ったり偽ったものではなく、「本当にしたかったこと」で認められた、というのは、それだけはよかったと思います。
僕はこのことを他人に言うときいつも「初めて両想いが叶った」って言います。ホントに好きな相手に、ホントの本心で告白して、初めて「イイですよ」と受け入れられた、という。人生初の経験だったからです。

そんな過程を経てるものねえw 増田の文とか「ケッ」って思ってしまいますのも当たり前のような気も致しますわね。笑。

人前で歌うこと。恥ずかしいですね。覚悟のハードルが高ければ高いほど、生まれるもののクォリティもあがるでしょうね。
僕が、プロ初心者のヒトのカバーを嫌うのは、そういう本来しなければいけない葛藤やら、越えるべきハードルを下げて逃げてる気がするから、だと思う。自分がしたのと同じ苦労をオマエもしろ、と言うわけではないんだけど、やっぱり、本心の言葉が好きなんですよ。たとえば yuhka-unoさんの文のように。だから、個人的好みから、そうしたものを推奨するし、僕が関わってるヒトには、そういう僕の方針をわかって欲しい、って思ってるんだと思う。それを最近ことさら強調するのは、この土地で、そういうことをしつこく言う人が僕くらいしか居ないからです。僕はいまは、嫌われるくらいでちょうどいい、と思ってますw

PS
昨日、会ったおねえさん、京都出身で、ダンナ氏の都合でこっちに来たのね。そういう意味では、僕もお互いヨソモノどおしで、ちょっと話が合ったりする。僕も関西に居たことがあるし、ちょっとずつ何か近いのは、ちょっとだけど安心感があるな。
んで、昨日は、この土地の気質について話して(意外にも、今まではあまり話題にならなかった)、ほかの田舎に比べても、こっちはかなり特別な気質だって最近特に感じるって言ってた。かなり保守的とも言ってたな。そんで地元の古い商店街やそれに関わる古い考えのオサーンな人々がメンドクサイ、って言ってったので、それは僕の故郷も一緒だって言った。僕の故郷も昔すごく景気がよかったので、その当時偉かった人たちの2代目とかがその癖が抜けなくて、町の中心部をシャッター街にしてしまった。いまこっちの商店街もそうなりそうでやばくなってる。とか、まあそんな感じ。

ヨソモノだから無責任にいろいろ言うんだろ、って言われそうだし、今まではおとなしくしてたんだけど、そんなことないよね。よそ者だからいろいろ見えて、いろいろできて、何か変えれるんで無いの。
こっちのヒトは地元が好きすぎてたまらないのね。そんで宗教みたいになってるわけだ。だから僕は「沈む船」なんだって言ってるのよね。そういう狭い考えからまず抜けないと、って思う。
京都も観光地だし、保守的ってきくし、そんな京都のヒトからそんなこと言われるのは、ちょっと意外だったなあ。
いい土地だし、普通のヒトもみんなイイ人なんだよなあ。でもそういう人は黙ってるだけで何もできないから。
僕がどんどん深く関わるにつれ、そういう中心部の人々の地元至上主義みたいな考えに触れることが多くなって、つまりそれは、僕も中心部にどんどん入り込みつつあるということなので、これからが本領だよな、といよいよ思う。


*yuhka-uno
そうか、接客業って演技の仕事ですもんね。演技の自分から本心の自分に戻る必要があったんですね。
創作って、その時の自分の状態がモロに反映されるものなんですね。だとしたら、以前mcさんが、「音楽は仕事だけでじゅうぶん」と仰ったのも、なんだかわかる気がします。自分の状態が問題なんですね。
ホテル後の一年間は、ある意味ひきこもり期間だったのでしょうか。自分を見つめなおし、構築し直すという意味で。
 
ちょうど「個性を伸ばす」ということについて考えてたんですけど、「個性を伸ばす」って修行なんだな、と思います。よく「個性を伸ばす」というと「好き勝手させる」と勘違いする人いますけど、そうじゃなくて、全然楽なことじゃないよ、と思うんですね。自分に向き合うのって、しんどいですもん。
 
>僕が何かを装ったり偽ったものではなく、「本当にしたかったこと」で認められた
これ、そうじゃなかった場合のことを考えると、怖いですね。
 
私は今まで、自分の文章について、それほど意識していなかったんですよね。今回色々と思い出して、自分の文章にも、それなりに私の歴史があるし、その時の私の状態が反映されているんだなぁ??と思いました。「良いお姉ちゃん」のままだったら、今のような文章は書いてなかったでしょうし。
 
あと、たぶんですけど、京都の「保守的」と、そちらの「保守的」は、違うんじゃないかなぁと思います。うまく言えないんですけど、京都は保守的とはいえ「動いてる」感じがしますね。ちゃんと流動しているというか。停滞してるという意味での「保守的」じゃないような気がします。



そう。いまもそうして、一定サイクルで開いて吸収する期間と、それを熟成する期間が交互になるんです。自分の中で溜まってくるんでしょうね。言いたいことやしたいことが。そのサイクルを掴んだのが最初のそのときだったんだと思います。

>自分に向き合うのって、しんどい

これはまさにそうです。自分もしんどいです。だから楽なほうに逃げたくなるし、サイクルの「開いた期間」時期って社交的で楽しいので、それがそのまま続いたりもしてしまいます。
そういう逃避の時期に、たとえば山田ズーニーさんとか、ここでのいろんなヒトとの会話とかで、ずごーんと心を射抜かれて、「自分は何をしてるのだ?自分本来に戻れ」って言われるわけですね。自分が逃げていると必ず、その後にはそういう出会いがあります。無意識のうちにそれを探してるともいえるんでしょう。
創作ってのは脱皮と一緒で、一定の数まとめて作品を生み出すと、それ以前とはなにか別な人間になった気がするんです。ステージが上がるっていうか、オトナになるって言うか。その触媒を常に探していて、見つからないとだんだん病んでくるじゃないかって気がする。
今ちょうど自分は創作期に差し掛かっているので、そんなことを感じます。なので今ココでこうして出会えたこともシアワセだったと思っています。

>私の歴史があるし

そうそう。そういえば、音楽の「アルバム」っていう言い方は、そのとおり「写真のアルバム」と同じ意味で使われ始めたらしんですよ。なので、歩んできた歴史だと思います。文章でも、小品集みたいな感じのものですね。エッセイとかなのかな。

保守的のこと。そっか。京都も一度住んでみたいって思ってるんですよね。たぶん今以上に大変な気はするけど、得るものも大きい気はするな。町の規模も違うし上下左右から出入りや流通がありますものね。


*yuhka-uno
なるほど、そういうサイクルが創作そのものなんですね。
確か、mcさんは以前、「創作ってしんどいから、歌う時くらい解放されていたい」という趣旨のことを仰ってたなぁと思い出しました。
でも本当にすみません。正直なところ、そのサイクルで思い浮かぶものが「排便」しかないです(笑)。たぶん、山田ズーニーさんのあの記事を読んだ後だったからでしょう。「排便」の例えがあったもので。
そう考えると、私の文章にも、幾分それに似たものがあるのかもしれません。「排便」的な何かが(笑)。
 
>音楽の「アルバム」っていう言い方
 
戦前戦後の流行歌に興味を持った時に思ったのは、「音楽って、タイムカプセルなんだな」ということでした。その時代の人の感覚が、そのまま残っているんですね。
これは冗談半分ですけど、私は、「古いものの良いところは、『昔は良かった』と言わないところ」だと思ってるんです。やたら美化されるでもなく貶められるでもなく、当時のそのままの姿を見れるのが面白いですね。それは個人の歴史についてもそうですね。
私は、子供の頃から描いてきた絵や文章を、なるべく残してあります。私のアルバムだし、タイムカプセルですね。
 
京都は、大阪とも違いますし、奈良とも違いますね。いち奈良県民としては、京都は「お隣さん」という感じです。顔見知りだし行き来もあるけど、内部事情まではよくわからないという。
もしmcさんが京都の住人になった時は、どんな感じなのか、ぜひ聞かせて頂きたいものです。その時は画面越しではなく、直接「京都uzeeeee!」ってなってるmcさんを見に行きますね(笑)。
 
縦社会では、縦社会での「認められ方」というものがあるんだと思います。体育会系の人たちがmcさんのことを「厳しい」と感じたのは、その人たちにとって、mcさんが、自分たちの社会での「認められ方」が通じない人だったからなのかな、と思いました。



ちょっと話が遠回りするんですが、僕は自分の曲が好きだし、本当にやりたいことだ、と言ったけども、ひとつだけ不本意なところがあるのです。それは曲のアレンジに「分かりやすい記号が入ってる」ことなんですね。
分かりやすい記号ってのは、具体的には「このヒトはどんな音楽が好きだったかという影響元」がはっきり分かる要素、ってことです。僕にとっては、それも「音楽本来ではない」付加要素なので、正直あんまりそういうやり方は好まないのだけど、それを曲に含めることで、圧倒的に食い付きが違う。
それも、その「食い付き」は、一般のヒト、というよりはマニアックなヒトや業界人に対してのアピール度が破格に増すのね。自分に仕事をくれたり、世界を広げていくのは、そういうマニアックな人や業界人だから、そういう人向けにアピール度があると言うのは、つまり「戦略的」なのね。それが僕は「ちょっと不本意だな」って思ってやってる。
でも、いま結局、認められるのはそういう方向性なので、つまりぶっちゃけて言うと、マニアックだったり業界のヒト、」とか言っても、本業の担当者、つまり直接製作に携わってる部門のヒト「以外」、例えば営業のヒトとかは、音楽について、全員が全員、大していい耳や感覚を持ってる、というわけじゃないんです。そういう感覚、と言うよりは、その素材を使ってどう売り込んでいくかとか、そういう感覚に長けてるから、そういう人になってるわけだから、そこで「わかりやすい記号」の入った作品のほうが、興味を持つんでしょうね。

幸い、僕はたくさんの音楽を聴いて研究してきましたから、そういう「歴史的」な音楽にはすごく詳しいですけど、自分がそれをする際に「記号としての時代感」を自分のアイデンティティの代理として使用するのは、ちょっと違うと思う、って思ってて、でも所詮みんなそういうことなんだな、ってちょっと落胆した部分があって、そういうことを「等身大メモリー」という曲で歌ってるんです。
一生懸命がんばって、音楽家という世界に一歩足を踏み入れたけど、その世界は自分が思ってたのとはちょっと違った、という感じです。みんな古いものや歴史を「大切にしてる」んじゃなくて、自分が何かを言いたいための道具にしてる、という感覚です。
そうね、たとえば、(最近の映画なのに)モノクロの映画とか、わざとセピアにしてる写真とかでしょうか。そういう戦略ってずるいなって思うんですね。

だから、yuhka-unoさんが古いものについてそうおっしゃったことは、すごく納得したし、ああ自分の思ってることは合ってたんだ!と思いました。「等身大」の歌詞の内容は、まさにyuhka-unoさんが言ってることとほぼ同じことになってると思います。

でもこれは非常に難しい、というか微妙な問題で、例えば僕の「曲そのもの」はちょっと昔っぽい懐かしいスタイルだと思うのですよ。そういう部分に「なんか懐かしい感じでイイね!」って感じてくれるのは嬉しいし、別にかまわないのだけど、アレンジや音なんかで、わざと時代感を出した物に仕上げるのは、ちょっと作為的であざといなと思うのです。
ちょっと前にピチカートファイブの研究をして、そのことについてブログ書きましたけど、結論として、彼らの音楽(というか小西氏のコンセプトやアレンジ)について好ましく思わなかった部分というのもそういうことでした。
平和やチャリティをしたいために音楽をする、というのと、ある特定の時代の空気を着たい為にわざと似せた音楽をする、というのは、僕の中ではどこか似た部分を感じます。ちょうど「排便w」に例えるなら、こういうやりかたは排便じゃ「ない」気がする。したくてしたわけじゃなく、受けるから、という理由でわざと排便した、というような。
これは難しい問題なので、今後も考えて行きたいなって思いました。

縦社会の話、そっか!通じないからわからないし怖いんだ!例えば厳しい師匠なんかもそうですが、そういう縦社会の、下の立場の人って「父親的なもの」の代理として、そういうのを使うってよく言いますよね。「父親」だから甘えてるんですね。僕は実力でしか判断しなかったから、どう甘えても何をしても通じない僕は、それは相手にとっては恐ろしかったでしょうね。でも、僕の要求は至極単純なんですよね。練習して上手くなってね、という、ただこの一点に過ぎないんです。すごく簡単なのに、そういう人たちは出来ないんだな。へー。なるほどなああーー。

京都ね。こっちに移住したくらいですから、そんな誘われると次には、あっさり行っちゃいますよ。そんで、また誰も相手にしてくれなくて切れてる自分が見える気がします。まあしかし、それも本望かな。笑。


*yuhka-uno
「わざと排便した」っていう表現がなんかツボに来て、画面の前で爆笑しましたwww
 
http://karakawa.cocolog-nifty.com/egm/2011/06/post-06f0.html
曲とアレンジについては、このお話ですよね?
色々と考えてみましたが、やっぱり難しいです。なので、とりあえず今思ったことだけ書きますね。
 
私は、三丁目とか金麦とかの「昔は良かった」系が、「なんだかなぁ」と思っているのですが、もし私が何十年後かの未来人だったら、今の時代のことを、「ああ、この時代は高度経済成長期への回帰があったのね。不景気が続くとこういうふうになるのね。面白いなぁ」って感じると思います。まぁ、そういうことも含めての「タイムカプセル」なんでしょうね(笑)。
 
一方で、現代人が古いことをする行為が嫌いかというと、全然そんなことはなくて、むしろ大好きなんです。マックス・ラーベは20~30年代のスタイル、ディタ・フォン・ティースは40年代のスタイルを実践している人ですし。
私の好きな年代だということは、否定できないんですけど、なんで好きなのかということを考えると、両方とも変な「押し付けがましさ」を感じないからだと思います。
 
結局私は、自分で決めたいんだと思います。古いものも今のものも、それを良いと思うか悪いと思うか、好きと思うか嫌いと思うかは、私が勝手に思うことですから。だから、「昔は良かった」なんて言って押し付けないで欲しいんですね。
それは人もそうですね。自分より上の立場の人であっても、誰を尊敬するのかは自分で決めたいんです。だから、体育会系とは相容れないですね(笑)。
 
年月が経つと、変に美化されるものもあれば、当時は「等身大」に見られなかったのに、年月が経って再発見・再評価されて、そこで初めて「等身大」に見られるものもありますよね。それは面白いと思います。
 
体育会系の縦社会って、上の人に対する「ご機嫌の取り方」があって、その「ご機嫌の取り方」を心得ておけば、可愛がってもらえるんでしょうね。上手く甘えて「愛いヤツよのう」って言ってもらうみたいな感じで。
そういう社会の人の、「上」の人に対する接し方は、まず「この人はどうご機嫌を取ったら良いんだろう」という発想なのかもしれない、と思いました。でもmcさんには、それが通じないってことですよね。
 
おいでやす、京都(笑)。



そうそう。僕が「等身大メモリーズ」というメッセージを強く言いたかった頃は、ちょうどそういう古いものを「昔はよかった産業」として押し付けてる風潮だったんです。
この辺は歴史の説明になるのですけど、90年代の前半あたり、あまり知られてない昔のアーティストの音楽なんかが一挙にCD化されて大量に売られ始めたんです。タワーとかWAVEとかHMVが出始めた頃ですね。それで当時ちょうどCDを買おうとしてた若者たちがみんな、そういう過去のCDを、新譜と同じように大量に買い込んで「古いけど新しい」と言って聴いてたんですね。それまでの音楽界というと、知識や造詣が深いほど偉いとされ、ロックマニアなおっさんが「こんなのも知らんで。若造がケッ」とか言って、音楽に詳しくない若者に説教してたんですよね。それが、そういうマニアックな旧譜の大量CD化で、そういうマニアおっさんが知らない音楽が大量に一般化してしまった。つまり、そういうのを買って聴いてた若者に勝てなくなってしまったんです。と同時に、あまり情報の無かった時代に「すごい」とされてたものなどの価値が、それほどでもない、というか、ほかにも同等のいいものはいくらでもあった、というように変化して多様性が生まれたんです。
僕はそういう変化を90年代を通して見続けて、これはいい風潮だな、これで時代が変わっていくな、というボンヤリした感覚を持ちました。そしてそれは事実になりました。
僕の「等身大メモリーズ」という曲は、そういう旧感覚に囚われてる人々への引導の意味も含めてました。恐竜あっち行け、みたいな感じですね。

親に厳しく何かを強制されてると、そこから開放されたとき反動で、その真反対路線に振り切れて、その後は、またその逆(つまり親からの強制路線)に戻り、やっと自分自身の中道を見つける、というような流れになる気がします。ちょうど、以前おっしゃってたような「反抗期」ですね。その最後の「中道に戻る」というのが「自分で決めた」路線ということな気がします。
僕も、フラットな感覚で自分自身で何をしたいのか決めたかったんですね。振り切りでも反抗でもなく、本当は何をしたい?って、ずっと自分に問いかけてました。そして今がある気がしますね。
それで出た結論が、結果的に親や誰かの決めた路線と一緒だったとしても、それは事実として受け入れなきゃいけなくて、そうだからこそ、初めてそこで親と自分の関係に向き合うことが出来たんだと思います。そして多摩川系路線に行くわけですね。

こっちの町が平和一辺倒(に見える)ということで、体制派が嫌いな僕は、それをすることは出来なくなりました。素直になれ、と言われてもなれません。笑。他人と同じことは出来ません。きっと、どこかよその町に行って初めて、平和について改めてじっくり考えるのではないかな。そんな気がします。その「どこかよその町」が京都かどうかはわかりませんw


と書きつつ改めて思ったけど、やっぱりいい時代に生きてるよね。少なくとも僕は、今まで生きてたどの時代よりも、今が一番生きやすい。
そう思ってるからこそ、今のこっちの若者に「20年がんばれ」って言ってるんだろうね。


*yuhka-uno
以前、価値観の変動期として、「ネット以前とネット以後」というお話をしましたが、音楽界では「CD以前とCD以後」という現象があったということなのでしょうか。それ面白いですね。新しい媒体が出てくると、そんなふうに変わるんですね。
そういえば以前、「若者の活字離れの嘘」みたいなテーマで書かれた記事を読んだことがありまして、そこのコメント欄で、「上の世代の人に『読書しています』と言うと、やたら読んでない本を探られたりすることがあるので、『本は読んでいません』と答えるようにしている」という内容の意見があったのを思い出しました。
「こんなのも知らんで。若造がケッ」っていうのも、「昔は良かった」の一種ですね。ああいうのって、昔の「作品」を認めて欲しいんじゃなくて、「自分」を認めて欲しいんでしょうね。
もしかして、電子書籍が普及すると、恐竜絶滅時代が到来したりするんでしょうか。だとしたら、電子書籍、良いかもしれませんね(笑)。
 
最近のエントリにも書きましたけど、私はやっぱり、他者基準ではなく自己基準で生きたいんですよね。以前お話した「アスリートと奴隷拳闘士の違い」ってやつです。自分のやりたいことが、結果的に親が望んだことと同じだったのは、私の中ではアスリートです。やってることは同じように見えても、動機が全然違うんですよね。
バブル以前は、他者基準の時代だったと思うんです。今はだんだん自己基準の時代になってきていると思いますね。今はまだ、他者基準が植え付けられてしまった親世代の呪縛が残っているものの、良い時代だと思います(笑)。
 
>素直になれ、と言われてもなれません。笑。
 
それ、とっても素直だと思います(笑)。



その後いろいろ考えたのですが、そういえば僕は、家庭環境(親子の確執を除く、金銭など実務的面)もそうだけど、分かりやすい形での努力とか苦労とかも、あまり経験がなくて、それで「努力して這い上がれ」派の人々からはずいぶん揶揄されたりバカにされたりしたな、と思い出しました。
これは、橋下やワタミのヒトのような人種にリーダーシップを取らせちゃいかん、という誰かの発言を見たから思ったんだけど、底辺から這い上がったヒトは、それを他人に強制する傾向があるって話で、ああ、僕が不得意だった昔の恐竜おっさんは、みんなそういう感じだったのかもしれないな、って思いました。
とかく苦労話は、他人にすると喜ばれるんですよね。僕も、そのことにやがて気づき、今は「他人用」に盛った「苦労話」を時々することがあります。でも実際は、プロとして当たり前のことをしただけで、「苦労して成り上がってやったぜ」なんて思ったことないです。繋がった「縁」のことは、すごいな、神の導きだな、って思いますけど、それは努力や苦労とはちょっと違う気がするな。
そういう点で、僕は常に「自己基準」で行動していたので、今の感覚に合うんじゃないかなって思いました。

ココ最近、請けたいくつかのライブPAの仕事が、割と層が若目で、そこで会うお客さんも好ましい人々が多く、ココ1年くらい自分が町で会った嫌な人々とは一線を画す感じがあって、ああ自分が知らん場所で、まだこんなに普通の人々がいるんじゃないか、ってすごく安心した部分があります。また、そのお客さんの中には旧知のヒトなども混ざっているのですが、僕の顔を見つけると、みんな一様に「元気なんですかー?」などと嬉しそうに話してくるんですよね。そんなこといろいろ思って、そういえば、こっちに来てすぐの頃も、こういう感じの人々とよく仕事をしていたなあ、などと考えていました。

結局「音楽村()」などというものに限って、20年前的恐竜社会なのであり、なんとなく目立つ形で存在してるから、それが全てのような気がして嫌気が差してましたが、実際は、あっちの人々のほうが既に居場所がなくなりつつあり、それについて足掻いてる状況なんじゃないかって思ったんですね。

そんな場所に「苦労知らずの」僕が顔を出したら、そら、20年前みたいに揶揄されて叩かれるのは当たり前なんですね。奴らの頭の中は、当時と変わっていないんです。そして、滅び行くだけの層なんだなって。
「業界の常識」として、音楽家だからといって、いまどき傍若無人だったり、酒飲んで暴れるとか、そんな時代じゃねえんだよ、と。それが普通だと思ってるのは、20年前の価値観のキミらの頭の中だけなんだよ、と。

そんなことを思ったら、ちょっとだけ哀れみの感覚が沸きました。でもしょうがない、自分たちが変われなかったんだもんね。

なるほどなああ。


*yuhka-uno
私もあれから色々考えたんですが、「こんなのも知らんで。若造がケッ」とか「昔は良かった」とかの押し付けがましさは、尊敬して欲しいのは作品じゃなくて自分なんだな、ってことだと思ったんです。その時代のスタイルや作品の素晴らしさや権威を、自分の承認欲求を満たすために利用しているんですね。だからやたら美化してしまうんだと思います。どれくらい美化されているかが、それを美化している人の承認欲求の大きさを表しているんですね。
私、半田健人は結構好きなんですよね。それは、彼が「作品愛」に溢れているからだと思います。マックス・ラーベやディタ・フォン・ティースもそうですね。その時代のスタイル、作品、それを創った人に対するリスペクトがあるんです。
 
「『努力して這い上がれ』派の人々」って、たぶん、苦労していればしているほど偉い、と考えているんでしょうね。それはもしかしたら、知識や造詣が深いほど偉いというのに、似ているのかもしれません。
私は、個人の努力ももちろん必要ですが、環境要素って大きいと思うんですよ。「縁」とか「運」ですね。たしか、仏教では「縁」って環境要素のことなんですよね。「『努力して這い上がれ』派の人々」って、環境要素を軽視する傾向があると思うんです。だから、わりと環境の変化に弱かったりするんじゃないでしょうか。
 
そういう「自分は努力して実力で這い上がってきたんだ」と思っている人に限って、変に権威主義的だったり、自分のご機嫌取ってくれる人を可愛がったりするような気がします。
逆に、「自分は運が良かった」と思っている人のほうが、自分についても他人についても、ご機嫌取りじゃなくて実力で判断しているように思いますね。
 
知識や造詣が深いことや、その人がしてきた苦労は、それそのものはその人の財産ですし、十分尊敬に値する要素なのに、承認欲求が強過ぎて、逆に尊敬されないようなことをしてしまうのは、すごく勿体ないことしてるなぁと思います(笑)。
本当は若者だって、年長者の知識や経験に触れたいって思ってるんですけどね。ただ、誰に聞きに行くのかは、やっぱり自分が決めたいってことです(笑)。
 
そちらでも、哺乳類の生息場所があったということなんでしょうか。だとしたら何よりです。
 
まとめありがとうございます。一度「終わり」と言って、感想を述べたら、そこからまた話が広がってしまったので、これはもう、どちらかが飽きるまで続くんじゃないかと思えてきました。なので、飽きたら言ってください(笑)。



うん。承認欲求ですね。そのことはレノンがよくインタビューで言っていました。オレなんか崇拝するナとか、人の曲をだしにして自分語りするな、って、既に昔から彼は言ってたんですね。偶像になるのは嫌だ、と。あんな人が言うからそれはそれは説得力あります。
まあ誰でも、褒められたい、とは思ってるんでしょうけど、それは強制するものじゃないんだけど、誰も褒めてくれなかったら、褒めて欲しいっていう欲求は溜まってくるんでしょうね。それよりなにより、自分もそうやって上を褒めて媚びてきた苦労があるから、それをしない後輩はサボってるように思うのかもしれません。

僕も褒めて欲しいですがw 自分の中でレベルに達してない、と思うものについて褒められるのは、なんだか背中が痒いです。自分で気づかない良い点を他人が気づいてくれる、ということもありますけど、それに甘えるのはとってもよくないので。

この1週間、いろんな人と会いましたよ。哺乳類、いましたねw まあでも、恐竜は恐竜で、したいこともあるんだと思いますよ。多様な価値観があっても別に全然かまわない、と思うのですけど、「恐竜」と言うだけあって、でかくて目立ちますから。そこはしっかり、対抗していかないと、僕の存在の意味そのものがないです。「野党」派なんですw

飽きたら、というか、なんとなく編集後記とかあとがきの対談的な感じですよね。リラックスしていいのじゃないかと思います。


*yuhka-uno
>自分もそうやって上を褒めて媚びてきた苦労があるから、それをしない後輩はサボってるように思うのかもしれません。
 
ああ~これは多分にあるでしょうね…。そういう人って、強い者のご機嫌を取って、上手く「世渡り」してきたことを自慢にしたりしますから…。
 
私も褒められたいし、承認欲求はあります(笑)。「褒められたい」「助けて欲しい」「甘えたい」という、個人的な欲求を自覚できれば良いんですよね。説教したりする人って、その自覚がなくて、「お前のためにやってるんだ」みたいな意識だから、嫌なんですね。
なんというか、「自分のプライドを満たしつつ甘える権利」を手に入れるために、一生懸命になってる人っているよなぁと思います。そんな権利、どこにもないんですけどね。プライドなんか捨てて、素直に「褒められたい」って言えたら良いんですけど。
 
たぶん、人って「褒められたい」というよりは「認められたい」んじゃないのかなぁと思います。他人を誘導するための褒め方とか、自分にとって都合の良い評価軸でしか他人を見ていない褒め方とか、やたら持ち上げられているときや、ご機嫌取りされている時の褒められ方って、あんまり嬉しくないですもん。
 
「裸」と「服」のお話については、以前、「言語は第二の遺伝子」という言葉を聞いたことがあったのですが、上の世代から受け継がれて、排除したり否定しようと思ってもできない、自分の中にずっとあるものというのは、なんか「遺伝子」っぽいなぁと思いました。「裸」のほうに宿るという意味でも。
 
あれから、ご機嫌取り型コミュニケーションについて色々考えてたんですけど、よく考えたら、体育会系縦社会だけでなく、私の母みたいな、他人に嫌われないための気遣いも、言ってみればご機嫌取りなんですよね。
「相手のご機嫌を取る」ことと、「相手を尊重する」ことは、全然違うんですけど、母はどうにも、「相手を尊重する」ということが、あんまりできない人みたいです。
私はご機嫌取りができないし、無理にすると気疲れするので、ご機嫌取り型コミュニケーションには馴染まないんですけど、一方で母のような気遣いに慣れさせられてしまっているところがあって、そこが自分でも嫌だなぁと思います(笑)。
ネットやっててわかったことは、結局私が付き合いを持つのは、変な気遣いやご機嫌取りをしない人だということです。ネットって内面から入りますからね。やっぱり、私はそういう人間なんだということですね。
 
充実した一週間をお過ごしになったのですね。ライブ成功したそうで、何よりです。



「言語は第二の遺伝子」の話ですけど、そういえば、昔の音楽が復活してきた90年代、僕はなんだかその状況が嬉しくて、「これこそ僕の本領だ!やっぱり血は争えないなあ」と知人に言ったところ、揶揄たっぷりに「へー。血ですか。貴方は黒人か何かですか。それは知らなかった」などと言われたんですね。
それは、確かに言うとおりですけど、何か僕は納得がいかず、鬱々としたことを思い出します。
その彼、それ以外でも、どこか冷笑的な奴で、結局それがきっかけで縁を切ってしまうのですけど、必然だった気がします。何か事をマジメに起こそうとする場合、冷笑的な人間が周りに居ると、それは絶対に上手くいかないんですね。僕の場合ですけど。

それで、話は戻るけど、遺伝子みたいなもの、という言葉にすごい腑に落ちました。僕は当時そう思ったんです。確かに。すごいね。

橋下うかっちゃいましたね。結局みんな石原もそうだけど「強い父」みたいの望んでるんでしょうね。

ご機嫌取りって、ご機嫌取られる側は、ご機嫌取ってればスムーズにことが運ぶように、上手に持っていきますよね。あれは実に上手いなあ、と見ていて思います。昔のプロデューサーとかでも多いですが、支配欲というか、やっぱり自分の意見を通して自分がやりたいことするためには、なんでもしますからね。映画監督とかもそうでしょうね。どこの世界でも「○○天皇」という言い方があります。黒澤が有名ですが、特に昔はみんな似たような感じでした。
もちろん一流の人ならそれもアリあろうな、という前提は僕もどこかで持ってる部分があります。それを許せるかそうでないかは、出来た作品レベルで決められるでしょうね。でもだからと言って、井上ひさしみたいな酷いDVを許せるかって言ったら、ちょっと難しいかもしれない。

そういえば小姑(すっかりこの呼び名)、一度の離婚歴があるのですが、別れた理由は相手のDVだそうです。でも心の中で「ああ、されそうだわ」と思ってしまいました。僕はDVしない代わりに自分が倒れたわけですね。

そう考えると、褒められたい、以外にも、自分の意見を通したい、という欲求もありそうです。それが極端になって、自分の考える世界観だけで周りを構築したい、となり他者を排除、というようになっていくのでしょうね。なるほどなあ。

さっきの話で気づいたのだけど、こっちは「大真面目」な人が多すぎやな、って思った。息が抜けません。年が上の人たちの中に、自分を客観的に見れる人が居ないんだな。そういう視点が欠けてるので一緒にやっていけなかったんだと思った。
僕がこっちに来てすぐの頃、ある人から「こっちの音楽やってる連中は、すぐになんでも、”あの人のプレイはすごい”とか”あの人は神や”とか、すぐ美化して神扱いして言う奴が多いから、気をつけたほうがいい」と言われたんですよ。その後、いろいろ付き合ってみて、確かに実際そういう面ありますね。他人についてやたらそう言うってことは、まさに、自分を認めて欲しい、ということの裏返しですね。なるほど。よくわかりました。

みんな忘れてるかもだけど、僕がこっちに来る直前くらいに小学生の事件が立て続けに2件起こって、いったいどうしたんだ長崎、みたいに話題になったのよね。ちょうど同じ頃から僕はこっちの人と関係ができたので、その話題もちょっとしてて、そんな何もない派手な土地でもないのに、なんだろう、とか、閉鎖的ってことがあるのかなあとか、話したこと覚えてる。あと、おっさんの人がよく言ってたのは、こっちは条例で風俗禁止なので、そういう店がないのでみんな溜まるんでしょ、とか。わたし、風俗経験が一切ないので(笑)どういう店のコト言うのか今ひとつ実感わかないのだけど、発散できる場所がないっていうのは、そんなに悪影響なのかな、とかボンヤリ思った。あれから数年たったんだね。犯人と同世代のコたちと今の僕も実際に付き合いがある。不思議な感じがする。機会があったら、同世代のああいう事件、どう思った?って訊いてみるのもいいかもしれない。あと、閉塞的な気分だった?とか。


*yuhka-uno
当選しちゃいましたねー。橋下サン見てると、若い頃の石原サンと、周りの受け止め方って、こんな感じだったのかもしれないと思います。旧来的なものをぶっ壊してくれる、若くて勢いのある人、というふうに見られていたのかなぁって。実際はどうだったのか知らないんですけどね。
 
>ご機嫌取ってればスムーズにことが運ぶように
 
ああ!これすごい納得です。でもやっぱり、それこそ死ぬまで一流の人しか、受け入れられないんでしょうね。一時期成功したとしても、その後環境の変化に適応できなくなると、やっぱりただの老害になってしまいますし。
逆に、ご機嫌取る側には、「目的を達成するためなら、ご機嫌だっていくらでも取ってやるぜ!」って人もいますよね。これも、自分がやりたいことをするためなら何でもするってことなのかなぁ、そしてこういう人の中には、将来ご機嫌取らせる側になる人もいるのかなぁ、と思いました。そうならない人ももちろんいるんでしょうけど。
 
>自分の考える世界観だけで周りを構築したい
 
母はまさしくそんな感じです。「普通・常識」という枠の中に安住しようとするんですね。母にとってこれは「牙城」なんだと思います。「牙城」を崩されることが、すごい不安なんですね。
やっぱり、体育会系縦社会と、他人に嫌われないための気遣いって、心理の根っこが一緒なんですね。
 
井上ひさし、確か学生時代の国語の教科書に載ってましたね。平和運動やっていながら、一方でDVやってたことについて、色々考えてしまいます。
 
CMといえば、他の地域の電気保安協会のCMって、全体的に真面目なんですね。関西電気保安協会だけギャグ路線で、明らかに異質です。
あと、子供の頃から聞いてるCMソングって、かなり刷り込み効果があるんですね。関西人の音楽の遺伝子には、かに道楽のテーマが組み込まれているようです(笑)。
 
少年犯罪のこと、私は覚えてますけど、それが両方とも長崎で起こった事件だったってことは、忘れていたというか、正直あんまり意識してなかったです。奈良でも、進学校に通う少年が自宅に放火した事件がありましたね。
長崎で少年で閉塞的というと、未成年にコンドーム売るの禁止する条例があったのを思い出します。



【Intermission】




いいですよねー。
「墓堀り」についてはちゃんと説明が必要と最近感じました。こういうのは全然大好きです。
でも80年代日本では、特有の「音楽学校的日本ジャズ」というジャンルがあって、その辺リアルだった僕には、またいろいろ感じるものもあるんです。その辺、話すと長くなるので略しますが、ともかくこういうのは基本は好きなんです。僕も。

*yuhka-uno
「音楽学校的日本ジャズ」…? どういうものなのか全然想像つきませんw
「墓掘りジャズ」とそうじゃないジャズ、「墓掘りシャンソン」とそうじゃないシャンソンがあるという感じなんでしょうか。



お返事ありがとうです。

一言で言うとメソッドとしてのジャズ、という感じでしょうか。80年代、ジャズの学校が流行ったんですよ。僕もそこの知り合いがたくさん居ます。
もちろん個性があって出世したアーティストもたくさん居ます。でも「メソッド」だから、適度の才能でもある程度の形が出来てしまうんですね。そういう人が他の何にもなれず、ホテルのラウンジとかピアノバーとかで演奏したりするんですね。お客として楽しむのは「おしゃれ」でいいのですけど「音楽をしてるサラリーマン」に過ぎないので、その人たちを音楽家と呼んでしまうのは、僕は個人的にあまり納得できないんです。同じように、僕のキャバレー時代も音楽家じゃ「なかった」と思います。

メソッドかそうでないか、っていうのは聴くと判ります。メソッドだけの人は東京じゃそんな仕事しかないから、こっちに戻ってくるとかそういうことになりますね。

シャンソンも同じかな。過去の焼き増しで手習いっぽく「歌ってるだけ」みたいな人がけっこう居るんです。そういう歌手の人、シャンソンだけでなく、歌謡曲のカバーとかもよく歌ってますね。

東京に居ると、この両者の関係がはっきり棲み分けされてるので、みんなわかって聴いてるんですけど、やっぱりこっちじゃみんなわからなくて、まあ、僕がそれをどうこう言う問題じゃないんですけど、楽しんでるならいいんだろうけど、指導的目で見ると、つい「なんだかなあ」って思ってしまうんですね。
何もなければ考えずに済むのだけど、視界に入ると、もう不快で一日むかむかするんですw

もう困った性格ですね…。もちろん僕は被害者だったから、と言うのもあるんですけどね。往々にして加害者のほうが逞しく生きていますね。どの世界でも。はぅ。

*yuhka-uno
ありがとうございます。「カバーばっかりしてる音楽家」って、そういう人のことなんでしょうか。表現物が「排便」という形で出ていないというか(笑)。
 
加害者は、他人を踏み台にしたっていう自覚がないから、逞しく生きられるんでしょうね。まぁ、とりあえず今のところは、私もなんとか頑張って生きてみようと思います。



ありがとございます。最近いろいろ愚痴って心苦しいです。
そうそう、そんな感じ。「表現してる」とも思えない。なんか偏見なんだけど、他人の作ったものに乗っかってるわけだから、よほどの主張とか自分カラーやリスペクトでもいいけど、そういうのがない限りは排便じゃない気がするんですよね。
まあでも、かれらのしたいことは、「音楽やジャズをより身近に」ってことなので、大物がめったに見られないこんな田舎では、それもじゅうぶん意義はある気はします。僕は個人的に、仲間だと思えない、ってだけで。

小姑さんはちゃんとオリジナルだし排便だと思います。ただ、その為に周りを傷つけて平気、だというのは、地方での活動の難しさから病んでしまった、という点は同情できるけど、それでも、彼女の活動の為に僕や、それ以外の他人も踏み台にされる、というのはやっぱり納得いかなかったなあ。

難しいですよね。
うん。頑張って生きてみる!しか言えないですね。

*yuhka-uno
最初、mcさんが「カバーばっかりしてる音楽家」のことを仰った時、私が思い浮かべていたのって、クラシック音楽の演奏家だったんですよ(笑)。だから、「え?なんで?」って思っていました。
一流の演奏家って、原曲を吸収して消化して排便しているってことなんでしょうか。
 
たぶん、mcさんのお話って、私にとって吸収要素になっていると??ころがあると思うんですよ。いつか何らかの形で、消化して排便させて頂くことになるかもしれません(笑)。



クラシックって作曲家主体なので、作曲家が作品に込めたメッセージを演奏家が研究の成果、もしくは独自の解釈としてとして提示してみせる、というものですね。よほどじゃない限り「譜面そのもの」の変更はないんです。
ジャズの場合、その自由さを悪用して、和音もメロディも「解釈」と称して改悪されることが多く、たくさんの劣化コピーを聴かされることになります。でも「ジャズという雰囲気」に騙されて劣化コピーだと気づかない人もたくさんいて、そこが僕は抵抗あるんです。
あと、クラシックの曲は訓練しないと書けないですけど、ジャズやポピュラー音楽ってハードルがそれほど高くないから、頑張ればオリジナルはすぐ出来ると思うのですよ。そういう音楽でありながらそれをせず、劣化コピーに甘んじた活動をしてる、というのは、どうも認めがたいんですね。こんなこという僕も相当頑固ですけどねw

そうですか。少しでもお役に立てたら嬉しいですよ。僕もずいぶん自分の中で固まってきている感じがします。僕の排便もきっとあります。音楽というカタチで。

*yuhka-uno
実際には改悪や劣化コピーであるものを、「こういう音楽なんです」みたいな感じで提供していることが多いから、ということでしょうか。
ジャズって、「なんかよくわかんないけどオシャレな感じ」がしますもんね。私も全然わかってないですw
 
今のところは、次回のmcさんの排便を見るために、頑張って生きようと思いますw



その後、こないだの古いCMの話から、いろいろ歩いたり書いたりしつつ考えてたのですが、たとえばうちの近所に「本場讃岐で修行し免許をもらった」と称するうどん屋があるのですけど、高い割りに美味しくないんですね。ただ、話によると「本当に」美味しい讃岐うどん屋もあるようなんですが、手打ちで「麺が無くなったら閉店」みたいな店なので、僕みたいに通常の時間に食事をする習慣が無いヒトにとっては一生食べられませんし、そもそも何故長崎にきてわざわざ讃岐うどん?と思うから、僕はあまり興味も無いんですね。それより近所の定食やとか場末っぽい中華屋に行ったりしますよね。そうでなければ、味の確証がある(知ってるから)リンガーとかチェーン店に行きますね。
たとえば香川県のヒトが来て、こっちの讃岐うどんと称するものを食べたら「こんなもの、讃岐うどんじゃねえ!」と怒るかもしれません(僕は蕎麦については時々そう思いますw)。
ともかく、せっかくこっちに来たのだから、こっちの土地臭バリバリなものを味わっておきたい、というのが僕の感覚ですね。
でもこっちにいてずっと地元から出ないヒトにとっては、こっちに居ながら「讃岐の味」と「都会の空気」っぽいものに憧れて味わってみたい、と思うじゃないですか。そういう意味での「ぽい」というのが、音楽にも当てはまるんじゃないかって思ったんですよね。僕は東京生活が長く、ピンきりでいくらでもどんなものでも触れて楽しむことが出来ました。だからわざわざ「それっぽいもの」を見たり聴いたり味わったりせずとも、本物のほうを知ってるし、別に長崎で讃岐うどんなんか食べるようなことには興味が無いわけですね。でも、一生ココから出ないヒトにとって、もしくは他所に興味が無いヒトにとって、またはこの土地最高!みたいなヒトにとっては、そういう他所の風習は「それっぽいもの」でじゅうぶんなんじゃないかなって思いました。

来て4年も経ってしまったから着たばかりの頃の感覚をずいぶん忘れてます。唐人屋敷のこといろいろ検索してて見つけたブログの中に面白い話が書いてありました。旅行で来たヒトがこっちのヒトに「観光したいからオススメの場所教えて」と尋ねたら、市内にオススメなんかない、五島とかそっちのほうに行け、って言われた、って。ああ!僕もそうだった!と思いました。こっちのヒトに「観光地のオススメ」を尋ねてもみんなそう言うんです。オススメなんか無い、しょぼいから、と。
振り返ると、僕はそういう人に呼ばれて移住してきて、影響を受けて、期待に応えてもっと本格的なものを、と気張って、今のような感じで頑固になってしまったんじゃないかって気がします。
田舎のCMやTVの音楽なんかが古くて味わいあるように、別に「なんちゃって讃岐」でもいいと言うヒトもたくさんいるわけだし、それを「そっちの讃岐はインチキ。こっちの讃岐のほうがもっと本物に近い!」とか言っても、それはどっちも似たものどおしって言うか、不毛な争いのような気がしますね。それよりは「インチキ讃岐なんかより、近所のボロ中華屋のちゃんぽんのほうが数百倍美味いんだぜ」と言ってやりたい気分です。

そんな感じの思考の流れでした。長いw

井上ひさしの件は、僕はずいぶんショックでしたよ。まあ僕だってロック好きだし、そういうアーティストでは、変人虐待男尊女卑など、枚挙に暇が無いようなくらい酷い人間ばかりです。昔はそれも破天荒でいい、みたいな風潮だったけど、今後は厳しくなるんでしょうね。それでも僕はどうしても音楽優先に考えてしまうので、たとえば玉置なんかは、酷いなと思いつつも、でもあの才能(実際にすごく上手いヒトです)のこと思うと複雑だ、というのが正直なところです。まあでもだからと言って、玉置の代わりが居なかったか、と言われるとそうでもない、好きなヒトには申し訳ないけど、彼がたとえ登場しなくても、代わりの上手いヒトはいくらでも世に出る機会はあると思いました。そう考えると、井上ひさしも同じですね。今みたいな世の中で、彼のようなヒトが登場する機会が無かったとしても、また別な才能が代わりの世の中に出てきたんじゃないか、って気はします。
と言うか少なくとも僕はそう思いたい。芸術とか言っても絶対的なものじゃないんだから「生んだヒトそのものの崇拝」なんか、しちゃいけないんだ、と思いたい、って言う感じかな。難しいですけどね。


*yuhka-uno
うーん、日本でイタリア料理とかフランス料理とか食べるのに似てるんでしょうか。それの国内版みたいな(笑)。イタリア人に「こんなのイタリア料理じゃない!」とか言われても、日本料理ばっかり食べるのも飽きますし、たまには「なんちゃってイタリアン」とか食べたくなりますね。まぁ、「本格」と銘打っておきながら、高い割に美味しくないとなると、流石にムカつきますけど(笑)。
自分のところに、ちゃんと本物だって面白いものだってあるんだってことが、わかってるかどうかってことなんでしょうか。
 
その人の生み出したものとした行為について、分けて考えられたら、と言う人もいますけど、でも実際には、行為と生み出すものは地続きだったりするし、そうそう割り切れるもんでもないですね。
色々と難しい。でも少なくとも、島田紳助の暴行事件の時みたいに、周りが変に庇うのは、かえって本人のためにならないということだけは、確かですね。



そうそう。そんな感じですね。
そういえば私、Led Zeppelinの大マニアで(有名な研究サイトも書いてる)大好きなんですが、ある年齢以上の音楽ファンとかプロのミュージシャンからも、物凄く評判悪いです。古いブルースからパクリまくりだし、ただやかましく、歌もキーキーわめくばかりで酷い、という評価ですね。実際それは僕も認めます。でもサウンドの構成とかにハンパないオリジナリティがあり、唯一無二のサウンドで今やヴィンテージ扱いの殿堂入りですからね。もとはパクリでも、それくらいなら最終的に認められるということなんでしょうね(僕はもとのブルースもたくさんちゃんと聴きました)。
その、Zeppelinが評判が悪い話ですけど、僕は実際に音楽の世界で仕事をしてたとき、いろんな同僚や先輩に「あんなインチキな音楽、ケッ」と言われましたw そういう部分は世代関係なく、自分の分野にストイックな人なら持ってる拘りでしょうね。芸に厳しい人が寛容だと逆に気持ち悪いです。関係のない他人の前でそういうことむやみに言ったりしないだけでね。でもそれは、あらゆるものがある東京だから成り立つので、こっちのふにゃふにゃ讃岐が本物と思ってる人を、うまく騙して楽な商売してるようなことには、やっぱり苦言は言いたくなっちゃうんだろうなあ。
スパゲティに関しても日本オリジナル料理ですよね。アレンジで本物とは違う美味しいものになってしまう、というのはZeppelinとも似ています。

クリエイターのDVやジェンダーな話は、ホントいろいろ考えさせられますよ。今の時点での気持ちで言えば、今までのことはしょうがないだろう、という感じです。今までが江戸時代みたいなもので、そういう時代に普通とされてた倫理観を、今の倫理観に当てはめて計ることは無理があるって。ただ、そういう偉人伝みたいに奇麗事ばかり伝えるのは、もうやめなきゃいけない、一面ではこういう非人道的な人間でもあった、ということも含めて、もう教えていくべきだ、としか言えないですよね。
紳助みたいな「現在進行」でのものについては、その過去の倫理観を当てはめる必要はないですよね。どんなに優れた人であろうが、そこは苦言するべき、でいいと思ってます。それこそ、まえのセクハラの話のように。


*yuhka-uno
なるほど。古くて良いものと、ただの流行遅れが違うように、明太子スパゲティやナポリタンと、ただの劣化版讃岐うどんは違うってことですね。
この前、ジャズのお話で、実際には改悪や劣化版でしかないものを、ジャズの持つ「なんかよくわかんないけど、オシャレな感じ」という雰囲気で誤魔化して提供するのって、「なんか詐欺っぽいな」って思ったんですよね。「本場讃岐で修行し免許をもらった」と称して、高い割に美味しくない劣化版讃岐うどんを提供するのも、詐欺っぽいですね。
明太子スパゲティやナポリタンは、ああいう料理だっていう前提があるから、詐欺じゃないですね。「本場イタリアンじゃないのはわかってるけど、明太子スパゲティが食べたい!」って思いますもん。Led Zeppelinもそんな感じなんでしょうか。「もとのブルースが良いのはわかってるけど、Led Zeppelinが聴きたいんだよ!」みたいな。
 
>そういう偉人伝みたいに奇麗事ばかり伝えるのは、もうやめなきゃいけない
 
ああ、これは本当にそう思います。そういうことですよね。
そういえば私は、父が車の中でビートルズの音楽をかけていたので、私の世代にしては、ビートルズの存在を早い頃から知ったほうなのかもしれないんですけど、知ったからといって、じゃあ興味を持つかっていうと、特にそういうわけでもなかったんです。流行りのJ-POPより、なんとなく好きだとは感じていましたけど。まぁ、そもそもあんまり、音楽自体にそれほど興味を持っていませんでしたし(笑)。
Motherが衝撃だったのは、内容に共感したから、というのももちろんあるんですけど、それまで「なんかすごい音楽家らしい」という、漠然としたものだったジョン・レノンの認識が、「生きてた人」に変わったからなんですよ。生身の人間の存在を感じたんです。それでジョン・レノンの人生に少し興味を持って、ネットで調べたりしたんですね。
だから、その人がどんなに凄かったのかを知らない世代にとっては、偉大な存在とかカリスマとかじゃなくて、生身の一人の人間としての取り上げ方のほうが、興味が持てるということもあるんじゃないかなって思います。



熱くなってヘイトジャズみたいになってたので落ち着いて考えてました。
何のジャンルを演奏するにしろ、どんな食べ物屋を運営するにしろ、結局「人」なんだと思うのです。たとえば小姑と同じような世代で年齢の人でも、東京で活躍の人でマトモな感覚の人は大勢居ます。むしろそうじゃないと生き残ってない。古いジャズの人だから、80年代音楽学校系だから、というよりは、ただ単に本人がアップデートし損なって着いて行けてない、ってことに過ぎないんだと思いました。
小姑はよく僕に言ってたんです。今どきジャズなんか滅び行くジャンルで誰も聴かないし、自分の活動場所もどんどん消えてゆく、こんな化石みたいな音楽なんか生き残れないのかなあ、と。でも、こっちに戻って10年間、姫扱いされて時代錯誤な活動でそういうイメージを与えてたのは本人なんです。その10年でネットも一般化したしパソコンで制作できるようになったし、それらのおかげで使う費用だって半分くらいになってるのに、自分はそういう事に全然馴染もうとせず、いまだに10年前の感覚のまま、しかもそのときでも古めかしかった姫様スタイルで継続しちゃって来たのだから、それは自分の責任なんですね。そんな時代遅れのようなものを、わざわざ姫のわがままに付き合ってまで、誰も売りたいと思わない、だからみんな自然に距離を置く、ますます小姑、居場所なくなり切れる、みたいな悪循環だったんだろうなって、想像できます。僕はまだ一生懸命耐えたほうだと思います。
まあ僕も人の事は言えないです。彼女たちの中に、他ならぬ自分の「もうひとつの未来の姿」を見てしまったからこそ、急いで逃げなくては、沈む船から脱出しなければ、と焦って行動したのかもしれません。

80年代メソッド系については、もうひとつ個人的にあります。それは、当時のジャズの人々が、もうほぼ全員と言ってもいいほど、ポップスやロックをバカにしてたんです。差別ですよね。完全に、自分たちがやってるジャズという音楽より、一段下に見ていました。クラシックの人もそういう傾向はあったけど、それほど酷くもなく理解もあったし、僕もクラシックは好きだったし、ジャズの人々とは全然違う人種でしたね。そういう過去のトラウマと言うか、積年の恨みがあるんですね。笑。そんな時代から月日は過ぎて、やっと通常の立ち居値になってきてホッとしてたのに、こっちじゃ相変わらず根強い上に時代錯誤の化石がのさばってるから、もうストレスフルでしょうがない毎日です。

昨日ちょうど市川森一さんが亡くなり、いろいろ思い返していたんだけど、僕がこっちに来て、地元の人と話すとき、何かのとっかかりで、こっち出身の有名人とかの話するじゃないですか。そうするとよく言わないヒトが割と多いんです。反応も鈍いし。福山もそうですね。こっちでファンという人にあまり会った事がない。
僕の故郷の出身と言うとカルーセルマキとかですよw それで「あいつは変な奴」とか言うなら判るんですが、こっちは偉人有名人たくさん居るのだけど、みんなすごい冷たい感じがしました。そのくせ「龍馬が愛した」とか「ましゃの縁の店」とか売ってたりするんです。
市川さんもやっと最近「蝶々さん」とかそういう故郷の事をとりあげて認められつつあったところですけど、それでも随分遅きに失したな、という想いはあります。僕が好きだった時代劇にしろ、そういうのに憧れてきても、当の地元の人が連れない感じでは、これはどうにもならないなって思いました。そのくせ自分の町が大好きで(と思い込もうとしてて)、プライドが高いので、すごく付き合うのが難しいですね。そういう「個人」はよく居ますけど(上司とか同僚に当たると大変w)、街の重責に当たる人までがそんな感じだと、これは困ったなあという感じですね。
奈良はさんまとかですよね。あとは僕が好きな佐伯ヒナ子とかもそうですね。そういえば思い出したのだけど、僕が中学時代好きだったコが奈良に!転校して行ったんです。今何してるんかなあ、とときどき思い出します。

そうそう、人間らしさと言うか、それこそ「等身大」です。人間くささを発見して初めていろいろ知る気になりますよね。だから僕は、ヒトにもそうあってほしいんですね。もちろん自分もそれを目標にしてるんです。いい話ですよね。ありがとうーございます。笑。


*yuhka-uno
生き残れていないのはジャンルじゃなくて自分だ、ってことでしょうか。
「姫様スタイル」や「時代錯誤な活動」というのが想像つかないのですが、具体的にどんな感じなんでしょうか。
 
奈良出身の有名人といえば、さんまの他には、城島茂や堂本剛がいますね。堂本剛はすごく「奈良愛」が強い人ですね。最近、奈良をテーマにした新曲の広告が、電車に貼られていました。
でも、よく言わないとか、反応が鈍いとか、そういう感じはあんまりないと思います。個々人の好みはあるでしょうけど。私が小学生ぐらいの時は、普通に「剛と光一、どっちが好き?」っていう会話してましたし、普通にファンの人もいると思います。さんまの話も普通にしますね。
ただ単にその人のことを知らないから、反応が鈍いということはあっても、冷たいというのは、感覚としてはよくわからないです。福山も故郷を捨てたみたいな感じでしたし、出ていった人はそんなふうになるんでしょうか。
佐伯日菜子、調べてみましたら、大和郡山市の出身なんですね。城跡と金魚の町ですね。



ありがとうございます。
そっか。具体的に判りにくいですよね。
ちょうど今、バブルのときのことを書いたブログを僕も読みましたが、判りやすいように言うと、あの中の業界人みたいな感じじゃないかなあ。あと僕が思い出すのは、よく慰問活動などするヒトとかも、ちょっと時代錯誤のヒトが来たりしますよね。姫スタイル、ってのはドレス着てステージに出てくるような人みたいな、フジコヘミングみたいな感じの人というか。あの人はクラシックですけど、それをジャズでやってる感じと言うか。

生き残れてないのはジャンルじゃなくて自分、というのはそのとおりなんですけど、例えば僕のやってるような音楽だって「古臭い」んですよね。しかも業界も不景気で経済的にも崩壊しています。だから10年前と同じことしてて生き残れるなんか思ってないし、頑張ってるわけですけど、こっちの化石な人を見てると、この10年それを怠った、というか地方に居るのでそこに気付かないまま、ただ10年過ぎて10年分古くなってしまった、という感じなんです。今の時代にわざわざそれを見に来るようなお客さん、というのは、ただノスタルジーなだけじゃないでしょうか。
そう、例えば、地方オリジナルCMみたいのがあるじゃないですか。あれは何十年も前のがそのまま流れてるから、楽しんだり笑ったりできるわけだけど、もし今、CM製作を依頼されて、あれと同じようなものを「ネタ」じゃなくマジメに作ったとしたら、それはちょっとありえない感じがすると思います。それが通用しちゃってる世界、と言えばいいでしょうか。でも実際は「通用してる」んじゃなく、大御所がコネで続けてしまってるので、新感覚の後輩の入り込む場所が空いてない、というのが現実だと思います。ネコに鈴をつける人が居ない、という感じかな。
だから、本当なら、東京で活動して戻ったような人は、そういうことに目ざとく気付いて、地方もローカル孤立化しないよう是正していかなくてはならない、という役割があるはずなのに、実際は逆で、古くて自分が無理しなくても生きられるから、古い状態のまま安住しようとしちゃうんですよね。都会に着いて行けなかったから、田舎に戻ってのんびりする、みたいな。もちろんそれでも全然いいんだけど、隠居した老人なら別にかまわないけど、そういう人が第一線で居られてしまうのは困ると僕は思ったし、そんな人に協力するのは、そんな彼らをますます延命させてしまうことになり、よくない、って気付いたってことなのです。

いま書きながら、自分の違和感を説明するのにどう言ったらいいのか、すごい難しいな、と思いながらいろいろ考えてました。また、それほどまで嫌わなくてもいいのに、他人のことだし放っておいてもいいのに、とも思いました。でも、その違和感がハッキリしないことには、自分自身も今後どうすればいいのか迷ってしまうし、浦島の玉手箱みたいに、ふたを開けたらあっという間に老人(年齢的なものじゃなく感覚として)、みたいなことになるのは嫌だと思ったんです。
それに、じっくり考えましたけど、やっぱりバブルのような人がそのまま生き残ってるのは良くないんじゃないか、って思ったのです。こっちに来て4年ですけど、僕が関わって失敗した人々は、みんなそういうバブルの感覚を残した人々ばかりでした。残酷なようだけど、みんな淘汰されただけなんですね。もちろん僕はそれに忠告もしてたんだけど、頑固だしイケイケだから聴かないんですよ。なので自業自得なんだって今は思ってます。そして僕も、そういう人々に関わるのは無駄なんだ、と気付いちゃったって事ですね。

剛くんも奈良なのかー。みんな悪く言わないのは、やっぱり「余裕」ですよね。だって大都市近県ですもの。見捨てられてないし、人々も行き来の自由がある。日本の西端とは違いますよね。たぶん、みんな、こっちの人、卑屈なだけなんじゃないかなって思います。
僕が親や過去のしがらみから解き放たれることが出来たのは、様々な経験もありますけど、もうひとつは大都市東京で生きているんだ、という自信や余裕もあったと思います。同郷の知人友人は、合わなかったりやっていけずにみんな故郷に戻りました。僕だけが生き残り、術を見つけたんですね。そういうことも大きかった気がする。

その、やっていけずに故郷に戻った人々、それが今こっちにいる音楽家、ですよね。僕は目的が有って来たのだから、そもそも彼らと合うはずもなかったのだよなあ…。なんだか寂しいですね。

僕が今、ココまで必死に尖っているのは、東京に戻ったときにちゃんとやっていけるように、感覚が鈍らないように、と考えてのことだと思う。だから、混ざったりしないよう常に気を張っている。
常にそんな状態では疲れてしまうでしょう?と思われるかもだけど、幸いなことに、若者は感覚が大丈夫なので、僕にもそういう安住の環境は少しあるんだよね。
もちろん、僕が目ざとく、そういう「新感覚の」若いコをちゃんと選んで付き合ってる(というか面倒見てる)ということもあるでしょうね。
そして、そういう「新感覚のコ」は、概して「こっちじゃ馴染めないコ」だったりもするわけです。

僕が居る意味はこれなんだろうなって思った。


*yuhka-uno
ありがとうございます。「姫スタイル」っていうのは、わがままとかだけじゃなくて、文字通りお姫様みたいな格好ってことでもあるんですね。とすると、滅んでいっているのは、音楽のジャンルそのものよりも、バブル的な手法ってことなんでしょうか。
 
私は音楽業界のことはサッパリなんですけど、今の時代って、多様化しているから、爆発的な流行が起こりにくい一方で、致命的な流行遅れというのも、あんまりなくなってきているのかなって思います。私みたいに、J-POPよりもむしろ墓掘り音楽のほうが好きだという若者だっていますし。ネット普及以前は、私はどうにも「近頃の若者」から外れているなって思ってましたけど、ネット普及以後は、私みたいな若者も、それほど珍しくなくなりましたから。
でも、墓掘り音楽に馴染み??やすい私でも、バブル的な手法は古いと思います。まぁそもそも、私が好きな音楽って、バブル期よりももっと古いものですし(笑)。
 
一つ疑問に思うことがあるんですけど、バブル期のフランスに対する認識って、実際のフランスじゃなくて、やたらめったら美化と憧れでコーティングされた「おフランス」だったんですよね。もしかして、バブル期のジャズやシャンソンも、そういうコーティングがあったんでしょうか。
 
私ぐらいの世代の奈良人だと、さんまより先に堂本剛を挙げる人も多いんじゃないかと思います。彼、奈良市観光特別大使なんですね。ここ最近は、奈良でのコンサートも精力的に行なっているみたいです。
出ていった人に対して冷たいってことなんでしょうか。だから、福山みたいに出ていく人は、「故郷を捨てる」ような感覚になるんでしょうか。



そうすね。例の90年代CD復活以降は時代遅れというのはそうそう無くなりました。
思ったのだけど、僕は仕事がら、いろんな音楽をいろんな環境で聴くので、いいもの悪いもの時代遅れやそうじゃないもの、ピンきりで聴きますけど、それが一般の人々、例えば yuhka-unoさんもそうですけど、そういう方々の耳に届く場合には、すでに淘汰されて届きますから、古臭いとか時代遅れ、って言っても、ちゃんと「センスある墓堀り」になってるわけで、なので「本当に遅れてる感覚」というのを耳にする機会がないから、実感として判らないんじゃないかって気付きました。
今までいろいろ出した例では、やっぱり、讃岐の話が一番判りやすいかなって思いました。

ネット以降は、趣味の多様さのフラットさが判りやすく見えるようになりましたけど、90年代から、「近頃の若者っぽくない」趣味の人は数多く見受けられるようになってきてて、なので僕は、若者が墓掘りを聴いてると言っても、さして驚いたりしないのですけど、当の「近頃っぽくない」本人は、自分と同種の人がネットで見えやすくなって安心できる時代だろうなって思います。それは僕も、別なジャンルですけど、そう思います。
ただこんど、そういう趣味の表明をすると、そういうの昔好きだった恐竜を呼び寄せてしまう、という恐れもあるんですねw 「へー若いのに感心やね。どれどれ、おじさんがレクチャーしてあげようぞ」とかなったら最悪なので、僕は、例えば自分がビートルズマニアだとか、絶対に明かしませんで隠しています。

おフランスね。サブカル時代、90年代とかはそんな感じだったかな。でもジャズやシャンソンがコーティングだったのは、60年代くらいが発祥で、それこそ、僕の父の同期のTBSの人ね、彼の世代とかが銀座に繰り出し、ジャズやシャンソンでクラブ(イントネーション違うほうの)でホステスとお酒のみ、みたいな。
そういう60年代文化を、御洒落という事でもう一回復刻させたのが90年代サブカルですよね。渋谷系とかのあれですね。あの時代のものは「おフランス」という感じじゃないですよね。
バブルの頃の「おフランス」ってレストランとかショッピングモールとか、そういう箱物系で顕著だった気がしますよね。実際僕もよく洒落乙なバーでワイン飲んだりしてましたよ。僕はどちらかと言うと、バブルのときの音楽って、民族系と言うかワールドミュージックな傾向があった気がします。景気がよく金も合ったので、逆に精神的なもの求めたのかもしれません。

この街出てく人は、必ず悪口言って去るのですよ。なのでこっちでも悪く言われるんですね。だから「捨ててった」という感覚になるんでしょう。でも、捨てられるようなことしたのは、町のヒトのほうなんですけどね。僕も今は凄くその気持ちがわかります。
僕は今年のいろんな経験で思ったのだけど、こっちで何かする場合「完全に支配する」くらいの勢いじゃないとダメなんだと気付いたんです。大勢翼賛的というか、大きなものに巻かれてしまうから、反主流に転落した場合、存在の意味さえ失くしてしまうのです。雑魚扱いと言うか。とっても残酷な街です。
だから福山も、ああやって絶対的な権力と圧倒的人気という、誰にも有無を言わせぬようなパワーで君臨するカタチでの凱旋以外は出来なかったでしょうね。半端は許されません。怖いねw


*yuhka-uno
「センスある墓堀り」っていう表現が、なんか面白いです(笑)。そういえば、マックス・ラーベは、「現代風にアレンジするのではなく、できるだけ当時のままを再現している」と言っているんですけど、「現代人から見てあまりにも古臭く感じるものは省いている」とも言っていましたね。
確かに、その年代の音楽なら何でもというわけではないですね。「通」の人なら、私が古臭いと感??じるものも、「くさや」とか「このわた」みたいなもので、味わえるのかもしれませんけど、私には無理ですね(笑)。
古いことをやっていても、その古いことをやっている自分を客観的に観る視点が必要で、その客観的に観る自分は、「現代人」にアップデートしておかないと、浦島太郎になってしまうんですね。
 
あと、ブログ更新しました。
記事内にも書いてある通り、私の場合、同種の人が周囲にいなかったとか、それ以前の問題でしたね(笑)。
 
「おフランス」というのは、実像からかけ離れた「高級なもの」扱いされてしまう、みたいな意味で言いました。一昔前のフランス発のブランド品の扱いとかもそうですね。ブランド化してしまったものって、偽物が出回りやすいですから。
ジャズの人たちが、ロックやポップスをバカにしていたということは、当時、ジャズがすごく「高級なもの」扱いされてたのかなって思ったのです。「おフランス」みたいに。かえってややこしくなってしまいましたね。すみません。
 
福山雅治みたいに、故郷を捨てるような気で出ていく若者のことについて、私はこの記事を思い出しました。この記事を読んだ時は、もしかしたらこれは日本の縮図なのかもしれないなって思いました。

 
「文化不況」というサイト、面白かったですね。色々思うことがありました。



>ジャズがすごく「高級なもの」扱い

ああ、わかりました!そういうことですね。
これは微妙に違うんです。当時も既にジャズは「古い」音楽でした。ヒットするのはロックとか歌謡曲とかニューミュージックですね。そんな中で「ジャズ」をやってる、というのはやってるほうも見るほうも「選民意識」があった様に思います。クラシックも同じだけど、こういう音楽を聴いてる自分が偉い、というような。
そんな中で、クラシックのほうは「やってる自分が偉い」という人は、そうそう見受けられなかったのですが、ジャズについては当時はまだまだ「自分はレベルの高い音楽をやっている」という意識がすごくあったと思います。それは逆に、さっき言ったように徐々に居場所がなくなっていくことへの反動のような気もします。強い相手(JPOPのような)に「あんなくだらないもの」と言って自分を保つ、というような。
当時でも、バンドブームで、インディーズであろうが、バンドのライブにはライブハウスに、それなりのお客さんが来た時代でした。ジャズのライブなんか高いし、小難しいんじゃないか、というイメージも強くて、みんな敬遠してました。結局、ジャズの生きる道は、ホテルのラウンジとか、何かのお洒落な付属品、というようなところしかなくなったんですね。つまり、食えなくなっちゃったんです。
僕がキャバレーをやってたころは、ちょうどそういう、ジャズの時代の終わりのことでした。だから、僕みたいな「ジャズなんか嫌いだ」という人も入り込めたんですからね。
今でも、ジャズ畑の人(特に年長の人々)の気持ちを支えてる、大部分は「プライド」だと、僕は思ってます。本人は否定するでしょうけど、僕はそう感じてるってことです。そしてその「プライド」部分が、よりきつくて食いっぱぐれる地方都市において、歪(いびつ)なカタチで顕著になりやすい、ということなんじゃないな、って。だから僕は、精神的に病んでるヒトと出会ってしまった、ということに過ぎないんだなって気付いたのです。たまたまそれがジャズ音楽家ではあったけど、それ以前に、自分の居場所がなくなって病んでしまった、という人だった、と。それが小姑みたいなタイプ。セクハラ野郎は、もともと営業マンだったこともあり、こだわりもプライドも(表面上)露にせず、より判りやすくなードルの低いカタチで提示して、どうにか生きようと試行錯誤するタイプ。でも、そもそも自分を偽ってるから、鋭いヒトには「あの人は何考えてるか不気味だよね」と言われるし、僕もそういう「本心」の探れないようなタイプのヒトは凄く嫌だったし、そして日々そんな状態だから、酒によって日ごろの鬱憤が爆発し、セクハラ酒癖として現れたりするのかもしれません。そういう意味では、やっぱり病んでるんですね。だから、僕は合わなかったし、楽しくもなかった、ということだったんだろう、と思いました。

ということで、では僕は居場所があるのか、と言われると、僕もないんですけど、僕は「オリジナル曲」を創りますから、例えて言えば岡本太郎w みたいなもので、居場所が有ろうとなかろうと、作品は生んでいくわけです。そうすると、貧乏だし仲間も居ないけども、精神的に病むことはそれほどないですね。実感として、自分はそれほど「病んできた」という実感もないです。特にキャバレー~ホテル以降は、ずいぶん好きなように生きたと思います。それは、周りの人々のお陰でもあります。感謝してもいいですね。これはw

僻地の医者の話、僕も以前読んだ記憶があります。恐ろしい話です。こっちもまったく一緒で、散々書きましたけど、偉い人や有力者、また出世コースの役人様とかもかな、こういう人たちが他者を排除してるんですね。
一般市民には責任はありません。弱い人々だから大勢に長いものに巻かれてるだけなんですね。いじめっ子側についてしまう生徒みたいなものです。今の僕は、この田舎業界で「あの人に関わると他のヒトから変な目で見られるので、遠めにしておこう」というような存在に既になってると思います。でも幸い、さっきも言ったように、僕のしてることは、自分自身でできることですから、それをしてる限りは生きていけそうな気はします。そして、それを評価してくれるのは、そんな有力者の恐竜どもじゃない、新感覚のお客さんですもの。悲観はしてないです。

墓堀りの件、そんなかんじですねw 「ただ古臭い」ひとは、田舎の商店街にある洋品店みたいに、ネタとして面白がられるだけになってしまうのですね。そうなってしまうのは自分の責任ですもの。
僕は小姑の代理人に最後に出したメールで「彼女の孤独死を貴方が看取ってください」と書きました。それが僕の言える精一杯のことだったと思います。

雨に歌えば、か。なるほどー。優れたものは時代の流れにも耐えて生き続けて行きますよね。レベルが高かったということでしょね。50年代のアステアとか見るとすごく思います。その影では既に消えてしまった山のような駄作もあったはずです。そんな中、現代に残ったものは、時代の変化でも鑑賞に耐えうるレベルだったんだ、と。
これも淘汰、ですね。

補足なんですけど、こっちでバンドする場合、結局若い学生のジャズの演奏家しか居なくて、そいつらと組んだのですが、意外に楽しかったんですよね。
そのあと、去年の3月、北海道ツアーに行って、札幌で同じようなジャズの若者を後輩に集めてもらって、即興ライブにしました。そのあとみんなで飲んだとき、僕が思ってた、ココでいろいろ書いたジャズに対する偏見ね、それを正直に言って、どうなるかと思ったけど上手くいってよかった、と言ったところ、確かにそういう偏見やプライドはある、でもそれは年長者に顕著で、今の時代、20代の若者は、ジャズだから、JPOPだから、みたいな偏向はなくて、普通に楽しくやってますよ、だから大丈夫だと思いますよ、と言われました。
なので、やっぱりそこも「恐竜」なんですねw 古い連中が、偏見を持ち、囚われてる、僕はそれに振り回されて勘違いしてた、と言うことでもあったと思います。

最近ジャズまた流行ってるみたいですよね。若者のジャズならきっと楽しいと思いますよ!


*yuhka-uno
なんか、ジャズの人たちも、自ら敷居を高くしてしまったようなところがあったんでしょうか。もともと「下流」から発祥したものが、時代を経るとともに「上流」になって、いつのまにか敷居が高くなってしまって、敬遠されて衰退していくものってありますもんね。
これって、着物の世界に似てるような気がしました。旧来的な呉服屋さんは、敷居が高くなってしまって敬遠されている一方で、若い人の間では、普段着として着るリサイクル着物やアンティーク着物を好む人が増えてきているみたいですし。
 
あの無医村地区の話が当てはまるのなら、若者が故郷を捨てる気で出ていくのも、地元の人が出ていった人に冷たいのも、多様化できないのも、「君臨」する形でないと存在できないのも、過疎化が進むのも、全部納得ですね。
井戸が埋まった時に、「とりあえず『よそ者』のせいにしておけば、一番波風が立たない」というふうになった話が、mcさんの体験と似てるのかなって思いました。
 
淘汰で思い出したんですけど、私が「昔は良かった」っていうのが嫌いな理由の一つが、「いつの時代だって、良いもの悪いもの、ピンからキリまであるでしょ。良いものだけが今の時代に残ってるってことなんだから、そりゃ昔のものは良く見えるよ」ってことなんですよね。それも確かに理由にありました(笑)。
 
何かしら「排便」ができないと、「便秘」になって病むってことでしょうか(笑)。それも、できれば公の場に発信するような形で。



そうですね。
ジャズとは言うけれど、その進化の過程で、楽器の演奏スペックを至上に高める、という目的が生まれて、そうすると、以前言ったドーパミンですよね。内容はともかく、演奏自体に意味を見つけるようになってくる。あとは、高度なメソッドに沿って臨機応変にセッションすることも、すごい快感ですよね。これも前に言ったけど、難しい道を曲乗りで乗りこなすみたいなところがありますね。そういうことを繰り返していくと、簡単なものを軽視、というか、物足りなく感じて来るんだと思うのです。
その辺で、墓掘り系と、演奏至上主義のジャズが棲み分けられてしまったんじゃないかなって思います。墓掘り系は、言い換えれば「古典」なんですよね。古典をするヒト自体が少なくなったんでしょうね。

ロックやポップって、簡単なものをしっかり演じることでうねりが生まれる音楽なので、そういう部分がジャズ系とは合わないんですよね。あとは、ポップって「歌」じゃないですか。歌って、いいメロディじゃないと受け入れられないし名曲にならないから、いくら楽器が上手かろうがメソッドを乗りこなせてようが、「鼻歌でもいいメロディ」のものには絶対敵わないんです。
優れたプレイヤーは、本業がジャズであろうと、しっかりロックの理論でリズムで演奏できるんです。日本でも外国でも、スタジオでレコーディングしている演奏者は、ほとんどそういう人だと思います。
そこまで至れなかったヒトが、自分理論を振り回して他ジャンルのヒトを乱してるんじゃないか、って思います。そういう人の内心には「ロックやポップスよりジャズのほうが高等だ」という意識があって、そういう行動をしてるのかもしれない、と。
で、こういうことは20年前には東京でもよくあったのだけど、自然淘汰されたり、自分も成長してきて、そんな人種と会わなくなって、なので、すっかり沈静化した、と思ってたのですけど、こっちに来たら、そういう意識がすっかり20年前なので、げげげー、なんだこれはー、20年前の価値観いやん、みたいにゲッソリしたんですね。

文化人を自称するような人種は、やっぱりお洒落で上流なモノに惹かれると思うのですよね。そういう、田舎スノッブを満足させるためにこっちのジャズはあると思う。
地方では、そういう意識を一回りさせて「むしろ簡単なポップにこそ真髄がある」みたいな考えまでは至ることが出来ないのです。普通に「大衆に迎合するダサいヒト」に見られてしまうので。
だから、ジャズはむしろ、そういう人々に利用されてしまった、ってことなんじゃないかなあ。そんなことを個人的に想像してみましたよ。

うん。徐々に便は溜まってきますよ。満を持して大放出すると気持ちよさ数億倍じゃないですか。それを楽しみにしているのですよw


*yuhka-uno
すみません、以前私がここで貼った「Ted Weems - You're The Cream In My Coffee」みたいなのは、「古典」のほうという理解で合ってますか?
 
自分個人単位で自信が持てない人は、ナントカの威を借る狐のように、自分の「属性」で自尊心を得ようとする傾向があると思うんですけど、「そこまで至れなかったヒト」っていうのは、そういうことなんでしょうか。それが、東京のほうでは、どんなジャンルをやっているかより、結局「人」だという時代になっているのに、地方じゃそうじゃなかったってことなんでしょうか。
「田舎スノッブ」というのも、以前mcさんが仰ってた、地方の人は基本的にミーハーで、自分で決められない、価値基準を外側に置いてしまうというのと、関連しているんでしょうか。
 
居場所がない、というお話、mcさんの状況とはまた違うと思うんですけど、「あれ?そういえば、私も居場所ないんじゃね?」って思いました(笑)。まぁ、一時期は本当に居場所がなかったですけど、今では徐々に自分を取り巻く環境が改善されつつあるのを感じます。こうしてmcさんとお話ししている間にも、私を取り巻く環境が少しずつ変わっていきました。まず私が変わって、私の変化と共に、家族も少しだけ変わってきた感じです。良かったです。



先日、高校までこっちで、いまは他所に住んでるヒトと話したのだけど、やっぱり、出てからいろんなこと見えたって言ってた。結局、ミーハーなものしか求められてない、というか、この田舎で生き延びる術として、軽くないとやっていけない、という事情を悪用して、適当な技術で音楽性でも派手にやれば受け入れられる、それをみんな実践してるんだろうね、という話になりました。セクハラ氏にしろ、例えば本職は管楽器なんだけど、最近になって下手くそな笛とかピアニカとか、そういうお遊びレベルの雑用を始めたりするんですね。僕らなんか、こんなことでプロでやっていけるの??って思っても、やっていけちゃう。なんてチョロイ街なんだ、ここは。って。僕がこっちに来て思ってた違和感は、まさにそこに集約されるので、話を聞きながらああそのとおりだな、って思いました。
基本的に、一般人はみんなミーハーなんだと思うんですね。それ自体は悪くないと思うのです。でも、する側がそれ利用して、みんな知らないのをいいことに、それに甘んじて稼いでいたのでは、一向に良くならない。結局、僕みたいな他所から来た人にバカにされてしまうんです。ふにゃ讃岐なんですね。
僕はそういう商売、どこか「100均」的だなって思いました。いいもの、便利なものあるんですけど、そのレベルでしかないんだ、っていう。「威を借る狐」ということで言えば、100均で買える「威」なんでしょうね。

こっちのトルコライス有名店で「きっちんS」ってとこがあるんだけど、これは発祥の店じゃないのね。しかも、他のメニューはともかく「トルコライス」は美味しくない。しかし店の外観に、路面電車(本物)の一部を使って観光名所みたいにして、集客して、有名店になった。
音楽家でも、全然上手くもないのに人気を博してたり著名だったりするヒトをみると、この店のことを思い出すのよね。結局ヒトは味とかで来るわけじゃない、観光地なんだし、話題やネタになった方がいいと思ったら、やっぱりここでしょ、ってなる(発祥の店はちょっと離れてる)。
そう考えると、別にそういうことを売りにした店とか、ドコでも良くあるし、普通のヒトにはそれでいいんじゃん、と思ってね、田舎にそういう音楽家しかいなくなって、別に誰も困らないんだから、って。
ただ、だからって僕も同じにすることはない。僕は路面電車なんか客寄せで構えなくなって、もっとたくさんいいことができるでしょ。きゃつらと僕は別なんだから、って。そう思えたのは大きいなと。

でも思ったのは、そういうことに対して憤り感じて頑固一徹みたいになると、狭い町なのでお客さんとの距離も近いし噂もあっという間に広がりますし、頑固なヒトで付き合いづらいから、という評判が立つと、一瞬でハブですよね。こっちで潰れた人はみんなそういう過程を経て終わるんですね。なるほど、と思いました。
頑固でありながら、偏屈でもなく人当たりもいい。こういう人になれば生き残れるし、勝てるでしょうね。僕がそうしていく、というわけでもないけど、ちょっと考えてみようかな、と昨日思いました。

サブカルというジャンル、これがまさに「属性で自尊心」を売り物にした文化でした。もともとそういう部分はみんな持っていますね。なので、それを悪用する方が悪いのではないか、ってなんとなく思います。時代は変わってきているのに、まだそれが有効と思って続けてしまっている人々、という感じでしょうか。ひょっとしたら、個人個人では気付いたり「ちょっと違うよね」と思ってたりするでしょうね。でも地方では、その数自体少なくて同意者にも出会えないでしょうから、外に現れる形としては、ミーハーな人しか見えない、ということになってしまう。だから、そういう存在が自分以外に居る、ということにも気付かず、孤独になってしまう、みたいな。

いろんな人と通じ合って話して、居場所が徐々にできてくる。とてもいいことですよね。残念ながら、同じ街にはそういう人は居らず、既に出て行ったヒトか、こういう場所で出会った方、に限られてしまうのですけど、それでいいんだと思いました。


*yuhka-uno
>頑固でありながら、偏屈でもなく人当たりもいい。こういう人になれば生き残れるし、勝てるでしょうね。
 
セクハラの人や田舎スノッブのお話で、「レベルを下げることと、敷居を下げることって、全然違うよな」って思いました。レベルは下げないけど敷居が低い人ってことですか?
 
「トルコライス」が美味しくないお店、画像検索してみました。面白い外観ですね。まぁ観光客にとっては、どの店が美味しいのかわかりませんし、場所や知名度や外観のわかりやすさで選ばざるをえないところがありますよね。リピーターを増やしてい??くやり方じゃなくて、観光客の一見さんに特化したやり方なんですね。
 
例えば、地元のチームを応援する、そのチームが勝ったら嬉しい程度の「属性の自尊心」なら良いと思うんです。でも、その自尊心が先鋭化していくと、排他的になったりして、おかしなことになっていきますよね。
都会っていうのは、様々な場所があって、しかも可視化されているということなんですね。「ここに行けば、自分と同種の人間がいる」というのが見えやすいというか。地方では、見えないどころか、そもそもそういう場所すらないんですね。
たぶん、個人個人では気付いていたとしても、周りがそういう環境だと、自分からは言い出しにくいしやり出しにくいですよね。もし何か言ったとしても、そもそも他に同種の人間がいるとはわからないし、自分一人だけかもしれないって思いますから。



ありがとう。そうそうそんな感じ。
こないだヒトに言われた「ちょろい街」という視点がツボで、それはそのヒトが街を出て行ったから言えることで、例えば僕が「釧路はクソ」というのと似てる、そう思ったのです。
ちょろいから、誰かが仕切ろうとすれば簡単にできる。音楽家も同じで、化石ジャズ連中はおそらく誰かに仕切られてるんです。で、僕は、仲間に入れなかった、はぶられた、というよりは「仕切られなかった」が正解だって気付いたんです。仕切ってるヒト、まあ一般的に「賢い」というのかもしれませんが、策士な感じですよね。そこはさすがの実力と思いました。
僕みたいな偏屈なヒトが、それとは相反する、親しみやすい曲を書けて、爽やかな(笑)親しみやすい外見であることは、神がくれたプレゼントだと思ったんですよね。昔は嫌でしたけどね。もっとストーンズみたいに悪者面に生まれたかったw でも今は、これがいいのかもしれない、と思いました。
レベルは下げずに敷居を下げること。これは最強だって気がします。

>光客の一見さん

ああそうだ。そのとおりですね。一回だけ騙せればいい。確かにそういう気がします。ただ、地元で通うヒトもそれなりに居ます。マスターもいいヒトらしいし、そういう意味じゃ、こっちの人みんなに言えるんですけど、意図せずにみんな小さな策士なんだな、って。あくどい、というより天然でそうなってるんです。そうやって生き残ってきた歴史があるから、自然にそうなった。これは気質だと思います。この街の、なのか、地方全般か、観光地にありがちか、その辺は僕はまだ判らないですけど。
食べ物の味とか音楽もだけど、はっきり言って個人の好みじゃないですか。それはじゅうぶん判った上で、でもトルコライスにしても、僕だけでなく舌の越えた地元のヒトも、あんなところで食べるな、元祖じゃないし、もっと美味い店教えてやるから、と言います。
他所から来たヒトが一番最初にあそこでトルコライスを食べて、「ああこんなもんか…」って思われちゃったらやっぱり損ですよね。別なトルコ食べてたら全然印象違うかもしれない。淘汰のレベルが都会と違うんですよね。って思います。

そっか。可視化っていうのはでかいですね。外に一回出たヒトは、存在を知っていますが、出ないままのヒトは可視化されてないと、ないものと考える。あるかもしれない、とかは、そもそも思いも寄らない、ってことですよね。

サッカーの例えはそのとおりと思います。地方ではどれに関してもそういうことですね。

インチキというものの真の概念が理解できたのは、千葉夢と魔法ランドとの出会いが大きいと思う。別に僕が好きで通ったわけじゃない。そうでなくて、友人知人が大量にバイトしてたの。もとはバンドの縁だったんだけど、最初に一人がバイトで入ってから芋づるで、知り合いがみんな入ってしまったの。
それ最初知ったとき「あんなんインチキじゃん。そんなところで働くなんて」って思ったのね。でも、徐々に哲学とか理念がわかってきて、あと、友人が目に見えて変わってきたので、すげー宗教みたい、と思ったのだけど、でもそれは悪いことじゃないと思った。
そして、音楽とかするときにおける、エンターテインメント性というものの基本は、案外これなんじゃないかって気付いたんだよね。
それまで僕は、音楽などにそういう付随要素があるのが嫌いだったから。でも、大勢のヒトを一瞬で騙して(いい意味で)、何かのメッセージを判りやすく伝える方法、これのヒントがあるだろう、と。それ悪用したのはヒトラーだけど、「いい意味で騙してくれる」のであれば、それは、騙されるヒトにとっては「一瞬の夢」でも現実でしょ。そういう、ショービジネスの基本を、その友人たちから学んだ。それはホテルの仕事の前だったけど、僕のホテルでの仕事にも多分影響あると思う。自分は自分のやりかたを見つければいいのだ。そう思ったんだろう。


*yuhka-uno
以前、「音楽の遺伝子」というお話をしましたけれど、容姿なんてモロに遺伝子ですよね。排除しようとしてもできないから、受け入れるしかないですね(笑)。
私は、見た目が実年齢よりずっと上に見られることがコンプレックスで、でも今では「大人っぽく見られるのも、悪くないよな」って思えるようにはなったんですけど、そうすると今度は、見た目の落ち着きに中身が伴っていないんじゃないかというコンプレックスを抱えることになってしまいました(笑)。
見た目はある程度誤魔化せても、中身は誤魔化せませんからね。まぁ、こういう自分を受け入れられるようになるのは、10年後20年後なのかもしれないと思います。その時に中身が伴う人間になることができれば良いな、と。
 
トルコライスのお話については、私も同じことを思いました。観光で行く人って、そのお店のトルコライスが「こんなもん」だと思わずに、トルコライス自体を「こんなもん」だと思ってしまうよなって。
そういえば最近、奈良のお酒で、パッケージを正倉院模様にしたら、売上が7倍に伸びたという話を聞きました。その時は単純に、「へぇ!パッケージって大事なんやなぁ」と思ったのですが、よくよく考えてみれば、中身あってのパッケージですよね。裸と服のお話みたいに。
ただ、奈良の場合は、もとはすごく良いものなのに、見せ方がイマイチで惜しいなぁと思うことが多いです。裸は良いけど服がダサイ、という感じで(笑)。
京都は、裸も服も良いですよね。センス良いなぁと思います。たぶんそれは、観光客相手の商売でも、競争が激しくて淘汰されていってるからでしょうね。そして、あれだけの一大観光地だと、本当に良いものは観光客には教えたくないということがあるでしょうね(笑)。
千葉夢と魔法の国には行ったことないんですけど、あそこってリピーターがすごく多いそうですね。観光客が一回行って「ああこんなもんか…」で終わらない。「騙し」のレベルが相当高いんでしょうね。



いやー。笑。3日間廃人でした。インタビューのページ見られましたか?でもやりがいはありました。最後の一仕事、みたいな感じでした。

このお返事いただいてからずっと、見た目が上に見える、ってどんな感じなんだろう、とずっと想像していました。例えば、背が大きかったりすると、中身より大人に見られて、大人っぽい言動を暗に期待されたりしますよね。それはそれで大変だろうなって思いました。
僕の場合、いま若く見られますけど、僕の人生一貫して若いのでw 例えば子どもや中学時代から「幼い」とか言われてましたので、それが今も続いてるだけなんですよね。それも遺伝子です。お酒が強いのも。不思議です。

パッケージの話は、そういうことよくあるだろうな、と思ってはいたけど、そうやって具体的に聴くと、ああなるほどなあ、と思いました。中身とともにパッケージという、イメージと言うか夢まで買っているのでしょうね。
僕は今一緒にやってる若いコに、中身が上達すれば外見も変わるんだ、って言っています。あと、京都の話し、おもしろい。その話聴いて、みんな僕には隠してるんじゃないか、とか邪推しました。ほら、トルコライス美味しい店を教えてくれたって言うヒトも、僕の音楽が好きで気に入ってくれて、それで好意で、親しくしてくれてそういうこと言ってくれるのだから、一元さんにはわからない部分も、この町もあるのかもしれない。表面上は凄くやさしいけどね。
まあただ「キッチンS」にしろ誰にしろ、頑張ってはいるのかもしれません。セクハラーも頑張ってはいるんですがね。だから多分あれが限界なんですよね。僕がこうやって叩き続けることで、叱咤されて伸びることは今も期待してますね。敵が居なくなったら、ああいう商売はダメなんですよ。なので僕は今後も、ダメ出しし続けると思いますw

そう。夢の国は、この僕が行っても、本当に凄いと思いましたから、本当に日常を忘れますから、逆に、帰宅すると現実の悲しさに泣きそうになりますよ。
僕は、夢とか魔法じゃなく、現実そのものが素晴らしくなって欲しい、って願ってるから、だからホントは、ああいうのがなくなって、現実社会が楽しくなればいいのですよね。難しいよなあああ。


*yuhka-uno
燃え尽きた感じですか?(笑)
インタビュー記事拝読致しました。なんか、これまでmcさんとお話したことが、色々繋がった感じがしましたね。90年??代に若者たちがCDカゴ買いしてたお話とか。あと、mcさんが小西氏のコンセプトやアレンジを好ましく思わなかった理由と、その方が辞めてしまった理由って、共通した部分があるのかなぁと思いました。このやりとりの一番最初の方でmcさんが仰ってた「出来合いのホットケーキミックス」って、こういうことなのかな、と。
「ミー・ジャパニーズ・ボーイ」の動画も見ましたよ。単純に「面白いなぁ」って思いながら見ました。ああいうのが「策士」なんですね(笑)。
 
私、身長は中の上くらいですけど、顔も体型も細身で縦長といった感じなので、実際の身長より高く見えるみたいですね。あと、声が低いほうなんだと思います。だから、余計に落ち着いて見えるんでしょうね。それに私は「お姉ちゃん」ですし(笑)。仰る通り、大人の振る舞いを求められがちですね。まぁ、成人しか買えないものを買う時に、年齢確認を求められたことが一回もないので、その点では楽ですよ(笑)。
逆に、母は年齢よりずっと若く見えますね。人生一貫して若いみたいです。よく友達や先生から、若くて綺麗なお母さんだと言われましたよ。私は父親に似たんですね。
mcさんは、声が高いですよね。mcさんの創る歌もそうですよね。
 
意図して観光客に教えないのと、単純に地元の人しか知らないのとは、また違うと思いますが、たぶん、田舎の場合は、後者のほうが多いんじゃないのかなって思います。まぁわかりませんけどね(笑)。
 
>逆に、帰宅すると現実の悲しさに泣きそうになりますよ。
 
だからリピーターが多いのか! 夢と魔法の国怖いです!w


【intermission 3】







*yuhka-uno
バブル期の女性って、なんかすごい派手でブランド品持ってて華やかなイメージだけど、実際のところはどうだったんだろうね。
コギャル時代の女子高生と一緒で、表層的なものしか取り上げられてなくて、実際にはそうじゃない人も沢山いたんじゃないのかな、とか思って。
 
というか、マスコミが取り上げる女性像って、今でも、「流行に敏感でファッションとショッピングが好きな若い女性」か「主婦」かの、どっちかって感じがする。



当時僕が出入りしてたのは下町の方だったし、バンドしてる子もみんな貧乏だったりで、そう考えると服装とか外見は今とそう変わらない印象がありますね。でも世間の考え方が「イケイケ」だったので、そういうのに影響受けた「バブル」っぽいコもいました。でも僕らからすると、遠めに「ネタ」扱いして眺めてた気がします。

それは別として、営業や仕事そのものはたくさんあって楽でしたよ。ギャラの払いもよかったし、お客さんもたくさん来てくれて、けっこう楽しかったなっていう印象でした。でもそれは、ただ単に当時の僕らが若かったから、というのもある気がしますね。あと、みんなお金持ってたので機嫌がよかったです。これが一番大きいかも。

そう考えると「バブル特有の」恩恵は受けたかどうなのか、微妙かなって思った。


*yuhka-uno
経済的には余裕があったので、そういう面では気持ちにも余裕があった時代だったのでしょうか。
ただ、私みたいに「モテ」に縁がない女にとっては、会社に勤めても結婚しか逃げ道がないような環境とか、恐怖だなwと思いまして。



このこと考えてたとき、こないだたまたまシンデレラエクスプレスの動画みたのですよ。CMもだけどユーミンの曲が好きでした。

こうやって未婚のときは美化してドラマみたいに仕立て上げて、でもそうやって煽るだけ煽っておいて、成就の先は誰も用意してあげなかったのね。確かに、その先は「幸せな結婚」という選択肢だったのね。

メディアや社会の人って、常に「お金使ってくれる人々」が好きなんだと思うんです。煽ってお金になってたから、それで続けてたのね。いま「若者の~離れ」とか言ってるのも同じですよね。お金使わない人々は「敵」なんですよね。すごい考え方だなあって思う。
当時の知り合い女子とか、会社は3年で辞めることが通例になってる!とか言って、3年経ってどこに行こうか、結婚するしかないのか、とか言っていましたね。結局、辞めたあと生保のセールスになっちゃった。それくらいしか、一般女子の仕事先がなかったんでしょうね。何か手に職あるひと、たとえば美術部だったコは、そういうデザイン関係とかに行ったりもしたけど、ごく一部だった気がします。それでも、お金はあったからなあ。自分がなくても世間にはあったから、気分的に楽だったと思います。だから「自分探し」とかできたんだろうね。

なんか、いろいろ過去のこと思い出して、複雑な気分ですわよw


*yuhka-uno
なるほど、「若者の煽り離れ」なんですねw 趣味が多様化した時代だから、ジャンル内での煽りはあるかもしれませんけど、若者全般に対する煽りが、なかなか通用しない時代なんでしょうね。
もしかしたら、趣味が多様化したことの他に、これまでの煽りが幻想だったってことに、皆気付いてしまったっていうのもあるのかなぁと思いましたよ。夢から覚めたんでしょうかね。



それまでは、価値観を他人がいくつか提示して、そこから選ぶ、みたいな方式だったのが、すべてのなかから無限に選ぶことが可能になったという感じなのかもですね。親鳥から餌を貰ってた小鳥の状態から巣立って独立したのでしょうか。そう考えると、若者の方が全然オトナなんですよねw


*yuhka-uno
若者がオトナというよりは、時代がオトナになってきたのかな、と思います。バブルという「反抗期」を過ぎて。
「すべて」とは言っても、一人の人間が見聞きして接することのできる範囲は限られていて、結局は自分に縁があったものの中から選びとるわけですが、ネットが普及するということは、今までより格段に縁が増えるということなんでしょうね。だからmcさんともこうして出会うことができたんですね。
 
こういう時代なんだから、生き方だってもっと多様化しても良いと思うんですけどね。たぶん、これからはそうなっていくんでしょうけど。





その3 に続く!
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